2011年12月4日(日) 待降節第2主日 マルコによる福音書1章1-8節
教会の暦は便利だ。新しい年への挑戦を呼びかけてくれるから。イエス信従の旅をやり直そう。イエス・キリストの福音の「はじめ」。そう、私たちの旅のはじめは何だったのだろう。幼児洗礼にしろ、成人洗礼にしろ「はじめ」はあった。 誰もがイエスとの出会いが「はじめ」ではなかったのではないか。 では、イエスのエルサレムへの旅立ちの「はじめ」は何だったのか。イエスが観ていた風景はどんなだったろうか。イエスの登場まで古代オリエントの5000年の歴史がある。そう、イエスの「はじめ」はその人間が生きてきた5000年なのだ。その上に、イエスは新しい生き方の旅に出たのだ。 今、世界は恐怖に満ち、人は行き詰まった生活を強いられている。橋下のような独裁者を歓迎するなか、私たちキリスト者は共生という生き方を始めなければならないのではないか。 |
2011年12月11日(日) 待降節第3主日 ヨハネによる福音書1章6-8節、19節-28節
キリスト教では救済史という考え方を取る。承知のように、神による救いの歴史がアブラハムから始まり、古代イスラエル、ユダヤ教を経てイエス・キリストが完成し、教会が世の果てまで、それを告げ知らせる、ということ。従って、洗礼者ヨハネをイエスへの道を準備する者と位置づけた。 それによれば教会の役目は自ずと明らかになる。マタイ福音書や使徒行録にあるように、イエスの始めた「福音」を世に伝えること、証することがその使命となる。しかし、所謂、宣教は教勢を拡大することではない。イエスの示した価値観「人は誰も大切にされる」を行い、中心とした社会を創ることだ。原発等の核エネルギーに頼ること、TPPの格差社会拡大を見過ごすことは、それに反することではないか。 洗礼者ヨハネの回心への叫びを、生き方の転換と受取りたい。 |
2011年12月18日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章26節-38節
福音書のイエス誕生にまつわる話は史実としてではなく、クリスマス物語として読もう。しかし、そこには、イエスが「何者」であるかの神学的意味がたくさんある。例えば、イエスが乙女マリアから生まれた、という物語はイエスが「神の子」であるとの神学からである、等々。 今回、私は神からの呼び掛けを受けたマリアの苦悩に思いを馳せる。私たちへの神からの呼び掛けは、安定した日常性を打ち破るものであり、それを受け入れることには相当の苦難を覚悟しなければならない。弟子に呼ばれたペテロたち、パウロも然り、旧約のアブラハムやモーセ、預言者たちもそうだ。マリアにしてみれば、ヨセフとの婚約・結婚は貧しいながらも当時では至極当たり前の生活が待ち受けていたはず。しかし、よりによって、婚約中に子どもが出来るなんて、律法違反により石打の刑によって殺されるという恐ろしい罰を受けねばならなくなることを、誰が「はい。」と答えるだろうか。マリアの苦悩は以どれほどあっただろうか。斯様に、神の呼び掛けはお気楽なものではない。しかし、真理、愛、正義を求めることが命懸けであることは、歴史が明らかにしている。 マリアの受諾はイエスの母になることへの喜びを示しているのではなく、神のみ言葉に従うことが生易しくはないにもかかわらず、受け入れることを私たちに問いかけているのではないだろうか。 |
2011年12月25日(木) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
クリスマス物語はキリスト教神学(イエスが誰であるか、救い主とは何か、等々)を象徴的に語るだけではない。私たちを想像、フィクションの世界へ誘う。ヨゼフとマリア、そして羊飼いらの胸中はいかばかりであっただろうか。身重のマリアを伴う強制移動のヨゼフ、安心安全な環境で静かに出産させてもらえない若夫婦、権力は人の命を人権と顧みない、容赦しない。二人は異議申し立てもできず、生きて行くには従わざるを得ない。まるで、奴隷だ。 羊飼いら、仕事上、安息日を守れない、汚れる、と言う理由から、律法上「罪人」とされ、公共の交わりから排斥される。従って、重労働もかさなり、なり手は外国人、前科者、逃亡者であった。余計に、「正しい」人たちから、嫌われ、白眼視され、人間としての尊厳を奪われたのであった。 それらヨゼフとマリア、羊飼いらは非常に孤独であっただろう。誰も彼・彼女らの苦境を理解し助ける者はいなかった。寝るところさえ与えられなかった。夫婦は家畜小屋で、羊飼いらは野宿で夜を過ごした。 イエス、神の子はその彼・彼女らのところへ来られたのだ。人間世界では片隅でちっちゃく生きざるを得ない者たちのところへ来られたのである。 震災や津波、原子力発電所の事故で今なお避難生活を強いられた人々が数多くいる。また、戦争、暴力、貧困、失業、病気に苦しめられているそれらの人々の胸中はいかばかりか。イエス・キリストは今、それらの人々のところにいるのだ。 だから、恵まれたキリスト者はイエスのいる人々に目を向け、心を配るように呼びかけられているのだ。それが「地には平和、御心に適う人にあれ。」との天使の声である。 |
|