今週の一句
黄葉の トンネルどこまで 続くやら

―もとゐ―


 2011年12月4日(日)
 待降節第2主日

 マルコによる福音書1章1-8節

1,1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1,2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1,3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1,4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1,5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1,6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1,7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1,8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 教会の暦は便利だ。新しい年への挑戦を呼びかけてくれるから。イエス信従の旅をやり直そう。イエス・キリストの福音の「はじめ」。そう、私たちの旅のはじめは何だったのだろう。幼児洗礼にしろ、成人洗礼にしろ「はじめ」はあった。

 誰もがイエスとの出会いが「はじめ」ではなかったのではないか。

 では、イエスのエルサレムへの旅立ちの「はじめ」は何だったのか。イエスが観ていた風景はどんなだったろうか。イエスの登場まで古代オリエントの5000年の歴史がある。そう、イエスの「はじめ」はその人間が生きてきた5000年なのだ。その上に、イエスは新しい生き方の旅に出たのだ。

 今、世界は恐怖に満ち、人は行き詰まった生活を強いられている。橋下のような独裁者を歓迎するなか、私たちキリスト者は共生という生き方を始めなければならないのではないか。  
今週の一句
お肉屋の 店頭彩る リースかな

―もとゐ―


 2011年12月11日(日)
 待降節第3主日

 ヨハネによる福音書1章6-8節、19節-28節

1,6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1,7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1,8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1,19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
1,20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
1,21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
1,22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
1,23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
1,24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
1,25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
1,26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
1,27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
1,28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 キリスト教では救済史という考え方を取る。承知のように、神による救いの歴史がアブラハムから始まり、古代イスラエル、ユダヤ教を経てイエス・キリストが完成し、教会が世の果てまで、それを告げ知らせる、ということ。従って、洗礼者ヨハネをイエスへの道を準備する者と位置づけた。

 それによれば教会の役目は自ずと明らかになる。マタイ福音書や使徒行録にあるように、イエスの始めた「福音」を世に伝えること、証することがその使命となる。しかし、所謂、宣教は教勢を拡大することではない。イエスの示した価値観「人は誰も大切にされる」を行い、中心とした社会を創ることだ。原発等の核エネルギーに頼ること、TPPの格差社会拡大を見過ごすことは、それに反することではないか。

 洗礼者ヨハネの回心への叫びを、生き方の転換と受取りたい。 
今週の一句
スーパーへ 行く度気づく クリスマス

―もとゐ―


 2011年12月18日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章26節-38節

1,26 〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1,27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1,28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1,29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1,30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1,31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1,32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1,33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1,34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1,35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1,36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1,37 神にできないことは何一つない。」
1,38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 福音書のイエス誕生にまつわる話は史実としてではなく、クリスマス物語として読もう。しかし、そこには、イエスが「何者」であるかの神学的意味がたくさんある。例えば、イエスが乙女マリアから生まれた、という物語はイエスが「神の子」であるとの神学からである、等々。

 今回、私は神からの呼び掛けを受けたマリアの苦悩に思いを馳せる。私たちへの神からの呼び掛けは、安定した日常性を打ち破るものであり、それを受け入れることには相当の苦難を覚悟しなければならない。弟子に呼ばれたペテロたち、パウロも然り、旧約のアブラハムやモーセ、預言者たちもそうだ。マリアにしてみれば、ヨセフとの婚約・結婚は貧しいながらも当時では至極当たり前の生活が待ち受けていたはず。しかし、よりによって、婚約中に子どもが出来るなんて、律法違反により石打の刑によって殺されるという恐ろしい罰を受けねばならなくなることを、誰が「はい。」と答えるだろうか。マリアの苦悩は以どれほどあっただろうか。斯様に、神の呼び掛けはお気楽なものではない。しかし、真理、愛、正義を求めることが命懸けであることは、歴史が明らかにしている。

 マリアの受諾はイエスの母になることへの喜びを示しているのではなく、神のみ言葉に従うことが生易しくはないにもかかわらず、受け入れることを私たちに問いかけているのではないだろうか。
 
今週の一句
足早に 落ち葉も駆ける 師走かな

―もとゐ―


 2011年12月25日(木)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 クリスマス物語はキリスト教神学(イエスが誰であるか、救い主とは何か、等々)を象徴的に語るだけではない。私たちを想像、フィクションの世界へ誘う。ヨゼフとマリア、そして羊飼いらの胸中はいかばかりであっただろうか。身重のマリアを伴う強制移動のヨゼフ、安心安全な環境で静かに出産させてもらえない若夫婦、権力は人の命を人権と顧みない、容赦しない。二人は異議申し立てもできず、生きて行くには従わざるを得ない。まるで、奴隷だ。

 羊飼いら、仕事上、安息日を守れない、汚れる、と言う理由から、律法上「罪人」とされ、公共の交わりから排斥される。従って、重労働もかさなり、なり手は外国人、前科者、逃亡者であった。余計に、「正しい」人たちから、嫌われ、白眼視され、人間としての尊厳を奪われたのであった。

 それらヨゼフとマリア、羊飼いらは非常に孤独であっただろう。誰も彼・彼女らの苦境を理解し助ける者はいなかった。寝るところさえ与えられなかった。夫婦は家畜小屋で、羊飼いらは野宿で夜を過ごした。

 イエス、神の子はその彼・彼女らのところへ来られたのだ。人間世界では片隅でちっちゃく生きざるを得ない者たちのところへ来られたのである。

 震災や津波、原子力発電所の事故で今なお避難生活を強いられた人々が数多くいる。また、戦争、暴力、貧困、失業、病気に苦しめられているそれらの人々の胸中はいかばかりか。イエス・キリストは今、それらの人々のところにいるのだ。

 だから、恵まれたキリスト者はイエスのいる人々に目を向け、心を配るように呼びかけられているのだ。それが「地には平和、御心に適う人にあれ。」との天使の声である。 

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