2011年11月6日(日) 年間第32主日 マタイによる福音書25章1-13節
「死の陰」を歩まざるを得ない人間は、何かに頼る。老後に備えて、年金や保険、貯蓄、等。しかし、それも、今や危ない。またぞろ、年金支給年齢の引き上げが検討されている。 旧約聖書には、飢えた人たちにマナを集めるときは、今日の分だけで、明日の分は集めるなとの神の言葉がある。それは、明日を思い煩うばかりの私たちに、何を呼びかけているのだろうか。明日の分を取るということは強い人が多く集め、弱い人の分まで取るという、格差が生まれるのではないか。 ヘブライ人が目指した理想郷は、相互扶助の機能した共同体であった。(イザヤ書58章参照)互いが助け合うならば、困難を強いられることはない。互いが無関心で、孤立無縁になるから、明日が心配なるのだ。 誰も助けない、誰かに助けを求めないから、生きることは不安だらけとなる。 自分の油が足りなくなるのを心配することから、与え、与えられるようにしよう。 |
2011年11月13日(日) 年間第33主日 マタイによる福音書25章14-30節
私が「今、ここに」生きているのは、「生かされている」から。何故、こんな「私」を。何故なら、「私」に「託された」お方がいるからではないか。宇宙をはじめ隣り近所の爺さん婆さんと共に生きることが「私」に託されているのだ。お方のこの壮大な意図に応えられるよう、常に、アンテナを張ろう。 飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。(イザヤ書58・10) |
2011年11月20日(日) 王であるキリスト マタイによる福音書25章31-46節
死の陰を歩む人生だが、幸運にも命長らえ、生活にも困らず、職も得ている。仏教なら良縁があると言うかもしれない。聖書ではヘブライ人がカナンの土地を神が与えたと言うに、私たちの命と暮しもそうである。他方、私たちの周りには困難を抱えている人々が多くいる。何故だろうか、神が恵まれないからだろうか。 否、人が意図的に作り上げた社会構造から来ている。現代ではグローバル経済、新自由主義と呼ばれる、守銭奴的金儲けが弱い人々を貧しく、病気にさせている。恵まれた私たち、その構造から恩恵を得ている。「原発問題」もその一つである。私たちはその意味で、他者を犠牲にして恵みを得ていると言える。この状況をどうしたらいいのか。2000年前のイエスも考えたろう。そして、イエスが選んだのは小さくされた人々と分かち合う生き方であった。私たちどう生きるのだろうか。 |
2011年11月27日(日) 待降節第1主日 マルコによる福音書13章33-37節
教会の典礼暦では今日が一年の始まり。去年は、大震災があったけれど、喉元過ぎればと言うように、月日が経てば何となく過ぎて行ってしまった感じ。そんな私たちに、イエスは呼びかける。「目を覚ましていなさい」と。旧約の預言者エレミヤは、ユダ国滅亡の破局時期に「何を見ているのか」と神から呼ばれたと言う。 大震災、原発事故と言う未曾有の今の時、私たちは何を見ているのでしょうか。 テレビでは相変わらず、グルメ、旅、クイズばかり流し続けている。私たちの関心はその程度かでしかないのか。米国のウオ―ルストリートを占拠しよう、との運動が「1%の富裕層が99%の貧困者を作っている」社会への抗議と変革を目指すように、私たち日本人は格差の是正、反原発、と命を脅かすものをよく観て、立ち上がることが必要ではないだろうか。 |
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