2011年10月2日(日) 年間第27主日 マタイによる福音書21章33-43節
「ぶどう園を任せられた農夫」、まるで、地球、世界、日本、地域、家族を与えられた私たちではないか。自然は優しい、無論、災害等の驚異には恐ろしい。しかし、人間が心していれば、被害は最小限に抑えられるはずだ。それを怠るがために、大災害が繰り返される。それに勝って、自然は人間を豊かにしてくれる。 田んぼでは米の収穫期を迎えている。けれど、原発事故によって汚染された米がある。人間の強欲と傲慢の結果だ。自然に感謝し、謙虚に、生命を守り、続けて行く生活をしなければ、「農夫」たちのように取り上げられ、追い出されるだろう。 |
2011年10月9日(日) 年間第28主日 マタイによる福音書22章1-14節
イエスの語る神の国は、ぶどう園とか婚宴に譬えているので豊作、収穫、祝祭、華やかさがある。何故なら、神とは私たちを感謝と喜びの人生に導く方である、とのイエスの主張があるから。まさに、日本の秋はそれを実感させてくれる。しかし、先を見通せない人間の営みはその豊かな自然を傷つけ、汚染し、回復不可能としている。そして、飢え、貧困が拡がり、病気を蔓延させている。実に、神からの招きを目先の欲から断っているのだ。 今、世界の飢餓、貧困、暴力に傷つき倒れた人々、そして、大地震、原発事故の被災者を目の当たりにするならば、このままでいいとは誰も思わないだろう。これらの人々のため、何が出来、しなければならないかを考察し、実行するのが招かれた教会ではないだろうか。 |
2011年10月16日(日) 年間第29主日 マタイによる福音書22章15-21節
イエスはファリサイ派やヘロデ党の人々と税金問答した。それは、イエスが精神的宗教的関心しかなかったのではないことを明らかにする。何故なら、聖書の信仰は、神の言葉が人間と社会の成立条件の指針であるとし、それに従うことを意味するから。更に、その神の言葉に従うには時代状況に適合させるため不断の議論、解釈を必要とする。シナゴーグとはその議論、解釈の場であった。当時の貧しい人々は過酷な重税によって、更に、極貧となり、人権・生命が奪われていた。税金を払うかどうかは生死の大問題であったのだ。当然、どうあるべきかをイエスとファリサイ派、その他は議論したのだ。 教会は2000年前の信仰箇条を無批判にオウム返しし、没社会となるのではなく、今日の世界状況にあって、如何にしたら「生命」「人権」が守られて行くかを普段に問い、実践し、貧しき人々と連帯する場とならなければならない。 今、日本政府は大増税をしようとしている。世界大不況、天災、原発事故の今、その是非を教会でも大いに議論し、声を上げねばならない。 |
2011年10月23日(日) 年間第30主日 マタイによる福音書22章34-40節
ユダヤ人は子どもの頃から、神の言葉(律法とも言われる)を、即ち、どう生きるべきかの指針を徹底的に覚えさせられる。そして、13歳頃、元服式を行う。それは、神の言葉の一節について自分自身の考えを言い表し、討論を行う、こと。ルカ福音書の12才のイエスが神殿で律法学者と討論した、との物語の背景である。 従って、今日の最大の掟は何か、というのはユダヤ人なら誰でもが知っているはずのこと。肝心なのは、知っていることではなく生きていること、イエスは身をもって死を賭して証した。私たちキリスト者もユダヤ人と同じくこの最大の掟をそらんじているはず、でも、知っているだけだ。だから、世界は混乱し続けている。今一度、この神の言葉に生涯を懸けてみよう。 |
2011年10月30日(日) 年間第31主日 マタイによる福音書23章1-12節
ユダヤ人たちは子どもの頃から「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことを最大の掟として教えられてきた。だから、彼らはそれを忠実に守ってきたはずだ。しかし、イエスはユダヤ教指導者たちを偽善者として批判している。祭儀や献げ物はよくするが、最も大事な、「正義、慈悲、誠実」をないがしろにしているから、とイエスは言われる。(マタイ23・23) それは、現代の教会にも当てはまる。ミサやロザリオなどの信心業は熱心過ぎる程行うが、肝心な、貧しき人々への関心は低い。旧約聖書には次のように隣人愛への呼び掛けを繰り返している。(レビ記19・13〜)あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害者を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。かけている。 イザヤ書58章にはもっとはっきり示されている。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。(8節以下も参照)この句はイエスの姿そのものだ。 しかし、この隣人愛への呼び掛けを自分を誇るためにするのではない。助けられる人の迷惑となる。私たちキリスト者というのはそのイエスと出会い、立ち上がらせていただき、後について行こうと、人生の選択をしたからだ。もう一度、イエスの背中を見ながら歩もう。 |
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