今週の一句
赤に続き 香り驚く 金木犀

―もとゐ―


 2011年10月2日(日)
 年間第27主日

 マタイによる福音書21章33-43節

21,33 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21,34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21,35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21,36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21,37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21,38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21,39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21,40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21,41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21,42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21,43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

 「ぶどう園を任せられた農夫」、まるで、地球、世界、日本、地域、家族を与えられた私たちではないか。自然は優しい、無論、災害等の驚異には恐ろしい。しかし、人間が心していれば、被害は最小限に抑えられるはずだ。それを怠るがために、大災害が繰り返される。それに勝って、自然は人間を豊かにしてくれる。

 田んぼでは米の収穫期を迎えている。けれど、原発事故によって汚染された米がある。人間の強欲と傲慢の結果だ。自然に感謝し、謙虚に、生命を守り、続けて行く生活をしなければ、「農夫」たちのように取り上げられ、追い出されるだろう。 
今週の一句
秋の朝 湧き上る歓声 ゲートボール場

―もとゐ―


 2011年10月9日(日)
 年間第28主日

 マタイによる福音書22章1-14節

22,1 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。
22,2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22,3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22,4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22,5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22,6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22,7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22,8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22,9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22,10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22,11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22,12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22,13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22,14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 イエスの語る神の国は、ぶどう園とか婚宴に譬えているので豊作、収穫、祝祭、華やかさがある。何故なら、神とは私たちを感謝と喜びの人生に導く方である、とのイエスの主張があるから。まさに、日本の秋はそれを実感させてくれる。しかし、先を見通せない人間の営みはその豊かな自然を傷つけ、汚染し、回復不可能としている。そして、飢え、貧困が拡がり、病気を蔓延させている。実に、神からの招きを目先の欲から断っているのだ。

 今、世界の飢餓、貧困、暴力に傷つき倒れた人々、そして、大地震、原発事故の被災者を目の当たりにするならば、このままでいいとは誰も思わないだろう。これらの人々のため、何が出来、しなければならないかを考察し、実行するのが招かれた教会ではないだろうか。 
今週の一句
惜しみつつ ひしゃげた銀杏 避けて行く

―もとゐ―


 2011年10月16日(日)
 年間第29主日

 マタイによる福音書22章15-21節

22,15 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22,16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22,17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22,18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22,19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22,20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22,21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 イエスはファリサイ派やヘロデ党の人々と税金問答した。それは、イエスが精神的宗教的関心しかなかったのではないことを明らかにする。何故なら、聖書の信仰は、神の言葉が人間と社会の成立条件の指針であるとし、それに従うことを意味するから。更に、その神の言葉に従うには時代状況に適合させるため不断の議論、解釈を必要とする。シナゴーグとはその議論、解釈の場であった。当時の貧しい人々は過酷な重税によって、更に、極貧となり、人権・生命が奪われていた。税金を払うかどうかは生死の大問題であったのだ。当然、どうあるべきかをイエスとファリサイ派、その他は議論したのだ。

 教会は2000年前の信仰箇条を無批判にオウム返しし、没社会となるのではなく、今日の世界状況にあって、如何にしたら「生命」「人権」が守られて行くかを普段に問い、実践し、貧しき人々と連帯する場とならなければならない。

 今、日本政府は大増税をしようとしている。世界大不況、天災、原発事故の今、その是非を教会でも大いに議論し、声を上げねばならない。 
今週の一句
柿食えば 日暮れ気づかず 鬼ごっこ

―もとゐ―


 2011年10月23日(日)
 年間第30主日

 マタイによる福音書22章34-40節

22,34 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22,35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22,36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22,37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22,38 これが最も重要な第一の掟である。
22,39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22,40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 ユダヤ人は子どもの頃から、神の言葉(律法とも言われる)を、即ち、どう生きるべきかの指針を徹底的に覚えさせられる。そして、13歳頃、元服式を行う。それは、神の言葉の一節について自分自身の考えを言い表し、討論を行う、こと。ルカ福音書の12才のイエスが神殿で律法学者と討論した、との物語の背景である。

 従って、今日の最大の掟は何か、というのはユダヤ人なら誰でもが知っているはずのこと。肝心なのは、知っていることではなく生きていること、イエスは身をもって死を賭して証した。私たちキリスト者もユダヤ人と同じくこの最大の掟をそらんじているはず、でも、知っているだけだ。だから、世界は混乱し続けている。今一度、この神の言葉に生涯を懸けてみよう。 
今週の一句
木枯らしや コロコロ笑い 転がりぬ

―もとゐ―


 2011年10月30日(日)
 年間第31主日

 マタイによる福音書23章1-12節

23,1 〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23,2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23,3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23,4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23,5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23,6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23,7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23,8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23,9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23,10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23,11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23,12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 ユダヤ人たちは子どもの頃から「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことを最大の掟として教えられてきた。だから、彼らはそれを忠実に守ってきたはずだ。しかし、イエスはユダヤ教指導者たちを偽善者として批判している。祭儀や献げ物はよくするが、最も大事な、「正義、慈悲、誠実」をないがしろにしているから、とイエスは言われる。(マタイ23・23)

 それは、現代の教会にも当てはまる。ミサやロザリオなどの信心業は熱心過ぎる程行うが、肝心な、貧しき人々への関心は低い。旧約聖書には次のように隣人愛への呼び掛けを繰り返している。(レビ記19・13〜)あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害者を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。かけている。

 イザヤ書58章にはもっとはっきり示されている。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。(8節以下も参照)この句はイエスの姿そのものだ。

 しかし、この隣人愛への呼び掛けを自分を誇るためにするのではない。助けられる人の迷惑となる。私たちキリスト者というのはそのイエスと出会い、立ち上がらせていただき、後について行こうと、人生の選択をしたからだ。もう一度、イエスの背中を見ながら歩もう。
 

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