2011年9月4日(日) 年間第23主日 マタイによる福音書18章15-20節
聖書の罪とは、神との契約を破ること、即ち、背反と言うこと。具体的には神の言葉、掟を守らないこととなる。レビ記19章には神の聖なる者なれ、と人への呼び掛けがあり、そのために守るべきことが列挙されている。所謂、「十戒」の応用版として。そこには、神に対するものと、隣人・他者に対することがある。従って、「聖なる者」になれの言葉に応えることは隣人との関わりなくしては有り得ない。 しかしながら、人は利己主義になりやすい「子どものような者」「小さい者」「迷える者」である。利己的になると言う人の性を前提にし、なおかつ、「聖なる者」に向かって、互いに受け入れ合いながら共に進んで行くのが教会なのだ。 |
2011年9月11日(日) 年間第24主日 マタイによる福音書18章21-35節
|
2011年9月18日(日) 年間第25主日 マタイによる福音書20章1-16節
「永遠の命」を得るにはどうしたら良いか。ユダヤ人の一人がイエスに尋ねた。今日でも、教会では同じ質問がよくなされる。その場合の「永遠の命」とは、来世、天国を指す。しかし、旧約聖書では古代イスラエルの民が目指したものは、乳と蜜の流れる地、即ち、ファラオ的奴隷の世界ではなく「自由・平等」の世界、理想世界、「神の国」であった。従って、今日の例え話しはその意味での「神の国」を語っているのではないか。 それは、現代的な弱肉強食の世界ではなく、連帯、分かち合い、共生の人間関係を示している。能力の有無に関係なく、平等に生きる世界が「神の国」である。私たちキリスト者はその「神の国」に生きるはずではないのか。 |
2011年9月25日(日) 年間第26主日 マタイによる福音書21章28-32節
今日の例えは、福音記者マタイの救済史観が見られる。即ち、神の救いはユダヤ教からキリスト教会へ移行したと。しかし、それ以上に、前回の例えと同じように、神の視線は常に、強い者の思いに反して、小さくさせられた人に注がれている、ことを教えられる。取税人や遊女を社会は正当に扱わないが、欲望追求に利用し、役に立たなくなれば使い捨てにする。現代の派遣労働者も同様だ。如何に、私たちは他者の犠牲の上で生活しているのだろうか。福島での原発事故も同じ構造だ。しかし、神は犠牲にされた人々をこそ優先的に尊重されることをイエスはファリサイ派や律法学者たちに突きつけたのであった。彼らはどう受け止めたのだろうか。パウロはそれを聴いて雷に打たれたかのように、180度の方向転換をしその宣教に地の果てまで出かけた。 私たちも同じくイエスの告発に人を小さくしない在り方、社会を目指そう。 |
|