今週の一句
台風の 影巻き上げて 去りにけり

―もとゐ―


 2011年9月4日(日)
 年間第23主日

 マタイによる福音書18章15-20節

18,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18,16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18,17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18,18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18,19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18,20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 聖書の罪とは、神との契約を破ること、即ち、背反と言うこと。具体的には神の言葉、掟を守らないこととなる。レビ記19章には神の聖なる者なれ、と人への呼び掛けがあり、そのために守るべきことが列挙されている。所謂、「十戒」の応用版として。そこには、神に対するものと、隣人・他者に対することがある。従って、「聖なる者」になれの言葉に応えることは隣人との関わりなくしては有り得ない。

 しかしながら、人は利己主義になりやすい「子どものような者」「小さい者」「迷える者」である。利己的になると言う人の性を前提にし、なおかつ、「聖なる者」に向かって、互いに受け入れ合いながら共に進んで行くのが教会なのだ。
今週の一句

―もとゐ―


 2011年9月11日(日)
 年間第24主日

 マタイによる福音書18章21-35節

18,21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18,22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18,23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18,24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18,25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた
18,26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18,27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18,28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18,29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18,30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18,31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18,32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18,33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18,34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18,35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
今週の一句
残照の ホームに立てば 秋の風

―もとゐ―


 2011年9月18日(日)
 年間第25主日

 マタイによる福音書20章1-16節

20,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20,2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20,3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20,4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20,5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20,6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20,7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20,8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20,9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20,10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20,11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20,12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20,13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20,14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20,15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20,16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 「永遠の命」を得るにはどうしたら良いか。ユダヤ人の一人がイエスに尋ねた。今日でも、教会では同じ質問がよくなされる。その場合の「永遠の命」とは、来世、天国を指す。しかし、旧約聖書では古代イスラエルの民が目指したものは、乳と蜜の流れる地、即ち、ファラオ的奴隷の世界ではなく「自由・平等」の世界、理想世界、「神の国」であった。従って、今日の例え話しはその意味での「神の国」を語っているのではないか。

 それは、現代的な弱肉強食の世界ではなく、連帯、分かち合い、共生の人間関係を示している。能力の有無に関係なく、平等に生きる世界が「神の国」である。私たちキリスト者はその「神の国」に生きるはずではないのか。 
今週の一句
はっとする いくつになっても 彼岸花

―もとゐ―


 2011年9月25日(日)
 年間第26主日

 マタイによる福音書21章28-32節

21,28 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21,29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21,30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21,31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21,32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 今日の例えは、福音記者マタイの救済史観が見られる。即ち、神の救いはユダヤ教からキリスト教会へ移行したと。しかし、それ以上に、前回の例えと同じように、神の視線は常に、強い者の思いに反して、小さくさせられた人に注がれている、ことを教えられる。取税人や遊女を社会は正当に扱わないが、欲望追求に利用し、役に立たなくなれば使い捨てにする。現代の派遣労働者も同様だ。如何に、私たちは他者の犠牲の上で生活しているのだろうか。福島での原発事故も同じ構造だ。しかし、神は犠牲にされた人々をこそ優先的に尊重されることをイエスはファリサイ派や律法学者たちに突きつけたのであった。彼らはどう受け止めたのだろうか。パウロはそれを聴いて雷に打たれたかのように、180度の方向転換をしその宣教に地の果てまで出かけた。

 私たちも同じくイエスの告発に人を小さくしない在り方、社会を目指そう。 

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