2011年8月7日(日) 年間第19主日 マタイによる福音書14章22-33節
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2011年8月14日(日) 年間第20主日 マタイによる福音書15章21-28節
誰が救われるのか。国を失ったユダヤの人々はどうしたら再び祖国に戻れるのか、即ち、神の恵みを得られるのか、必死に考えた。そして、様々な考えが生まれ、その一つが「律法遵守主義」となったファリサイ派であった。律法の忠実度が救われるか否かの基準となった。従って、律法を守れない立場の人々は「罪人」とされ、その汚れに触れないよう社会的交際からも排除されたのであった。ところが、イエスはその人間的基準を撤廃した、何故なら、太陽の光や雨のように神の恵みは無条件であるから。しかし、ファリサイ派やイエスの弟子たち(後に教会を設立)はそれを認めなかった。今日の福音書にある異邦人の女性の願いを渋々聞き入れたイエスの姿は、それを反映している。神の救いはまずユダヤ人に与えられる、と。今日の教会も神の恵みに近づくために何重にも垣根をめぐらしている。 しかし、私たちイエスにもどろう。神の近さを身を持って人々に知らせよう。神を待っている人は多いのだから。 |
2011年8月21日(日) 年間第21主日 マタイによる福音書16章13-20節
イエスのペトロへの教会設立の言葉、無論、イエス自身の言葉ではなく、編集者マタイの教会によるもの。教会の権威付であろう。ともかく、その言葉を、私は教会に与えられた責任の重さと取りたい。「黄泉の門もこれに勝たない」、つまり、悪霊との闘いに勝つことが教会に託されたイエスの言葉として。しかし、悪霊との関係では、闘わずして取り込まれ呑まれているのではないか。後にイエスがペテロを諌めた言葉、「サタンよ退け」のように。先の原発事故をはじめ、かっての大戦、高度経済成長、貧困問題、3万人以上の自殺者、グローバル化、等々。教会は社会から離れ、自己の殻に閉じこもっているのではないか。イエスは十字架を担いで、黄泉の門と闘った。私たち、教会はどうか。イエスは十字架上から呼びかけている。ついて来なさい、と。 |
2011年8月28日(日) 年間第22主日 マタイによる福音書16章21-27節
教会ではミサの時、「信仰宣言」を唱える。それは教会の信じる事柄を確認するためでもある。4世紀にまとめられたものを使用するのでとても伝統があり荘重さを感じる。しかし、言うまでもなく、声で発することが信仰ではない。イエスが招くように、イエスに従うこと、十字架を負うこと、他者のために命を分かつことこそが肝心だ。ペテロへの叱責は、イエスへの礼拝が教会ではなく、大きな理想に向かって「荒野」を旅するのが教会であることを忘れるな、呼びかけている。 |
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