2011年7月3日(日) 年間第14主日 マタイによる福音書11章25-30節
イエスは重荷を負う者に呼びかける。「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。現代の教会は同じように世界に向かって呼びかけているだろうか。「他者のため」の教会と言われる、けれど、「身内だけ」の親睦教会となっているのではないだろうか。教会外には呻き声、叫び声が満ちている。祭司やレビ人が強盗に襲われて倒れていた人を見捨て、「信仰」を忠実に守った、と言うあの例え話しが、今の教会を指しているのではないか。 イエス自身から自分の重荷を下ろしていただいた私たちは進んで、他者の重荷を担う者になることこそ信仰ではないだろうか。 |
2011年7月10日(日) 年間第15主日 マタイによる福音書13章1-23節
イエスの言葉と働きによる「福音」宣教は、小さくされた人々を支配する権力者たちからは、社会秩序を乱すものとして危険視、排除された。イエスは「狼の中」に派遣するものだと、弟子たちに警告した。キリスト者としてイエスに従う私たちもこの世と言う「狼の中」で生きることなのである。安心、安全、無風状態で生きることではない。あえて、摩擦、困難を引き受けることである。大震災、原発事故、等々、現代世界は混乱し希望のないところになっている。その中で、夢、希望、生きがいを持てるように倦まずたゆまずやり続けることが、イエスに従うことなのである。 みんなでその世界創造へ参加しましょう。 |
2011年7月17日(日) 年間第16主日 マタイによる福音書13章24-43節
私たちの世界には不平等が蔓延している。例えば、福島県の人と愛知県の私たち。正社員と非正社員、アフリカの子どもと日本の子ども、等々。これら不平等されている人々を当たり前の境遇にすることを聖書では「正義」と言う。その「正義」を行うことが人間の生きる道と聖書は語る。イエスが目の前にした2000年前のユダヤでも同じであったろう。まさに、畑には良い麦とそうでないものが混在しており、悪いものが幅を利かせ、良いものを圧迫していたであろう。それにイエスは腹を痛めた、つまり「憐れん」だのだ。そして、十字架の道を進んだ。私たちは、他者の痛みに敏感であろう。そうしないと、体は動かない。動かないと収穫のとき、刈り取られ焼かれてしまうのだ。私たちが動くのをイエスは待ち続けられている。 |
2011年7月24日(日) 年間第17主日 マタイによる福音書13章44-52節
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2011年7月31日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
イエスは「大食漢、大酒飲み」と揶揄されるように、人々と食卓を共にした。徴税人レビやその頭ザアカイ、マルタとマリア、らい病者シモン、そして、最後の晩餐、など、福音書には食事の場面が多くある。従って、今回の5000人への「パンの供食」物語は、そういうイエスの生き様の象徴的な物語と言える。イエスの時代、多くの貧しい人々は飢えていた。彼らと生死を共にするということは、まず、食物を分かち合うことではないか。たとえどんな立派な説教をしたところで、飢えた人の空腹はみたされないからだ。しかし、イエスや弟子たちには多くの飢えを満たすほどの資金はない、あると言えば、自分たちの必要なパンしかない。飢えた人を前に、自分の食い扶持を減らすしかないのだ。 イエスの前には助けを必要とする人は無数にいる。しかし、イエスは一人でしかない。出来ることは、自分を差し出すしかないのだ。天の国が「からし種」「パン種」のようなものだ、と言うのはそのことではないか。 私たちも微力で役に立たない、しかし、私たちを必要とする人々は御万といる。 私たちが自分を分かち合うとき、その御万の人は幸いになるのではないか。 |
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