今週の一句
風光り 稲の朝礼 始まりぬ

 2011年6月5日(日)
 主の昇天

 マタイによる福音書28章16-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28,20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスとの出会いは私たちを変えた。死の陰を行くとも災いを恐れない、あなたの鞭と杖が私たちを守られるから、と詩篇が歌うように。そして、この生きる喜びを私たちが人々にも伝えるようイエスは私たちを派遣される。イエスが天に昇られる、それは、イエスが私たちの人生の「主」となられたことを意味し、イエスを他者に紹介することが、私たちの「人生」であることを確認するのである。 
今週の一句
五月雨の 音を数えて 寝入るかな

―もとゐ―


 2011年6月12日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書20章19-23節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 恐怖と悲嘆のうちに沈んでいた弟子たち、彼らを立ち上がらせたのはイエスであった。イエスが目に見えたかどうかは問題ではない。しかし、彼らを宣教へと向かわせたイエスとの出会いがあったのは確かである。

 イエスは閉塞状態にあったユダヤ教、即ち、ローマ帝国の支配下、大祭司や貴族はローマとの妥協に生き、神の裁きという終末論的期待にしか生きる希望を持てなくなったファリサイ派は裁きから免れるため極端な律法主義に走り、自己の「清さ」を守ることのみに汲々としていたのであった。そのため、貧しい人、弱い立場の者たちを「罪人」と呼び、「汚れる」と言って関わらずに生きていたのであった。ここに、旧約聖書以来の人間の理想的生き方、他者、就中、弱くさせられた人々との連帯は忘れ去られたのであった。それ故に、貧しい者たちは途端の苦しみを受けていた。イエスはその時代に生きたのであった。イエスがそれら
群衆を見たとき、「飼う者のいない哀れな羊たちを見て、腸のちぎれる程の思いをした」と聖書に書かれている。イエスは立ち上がり、彼らと連帯して、彼ら彼女らの人生が幸あるものになるよう働かれた。しかし、それを反体制の運動と見た、ユダヤ教支配者、ローマ帝国から政治犯として処刑されたのであった。しかし、イエスに従った弟子たちは、そのイエスの生き様に神の呼び掛けに徹底的に応えられた「神の子」としての姿を見出したのである。そこに、彼らは光明を見出した。人はイエスのように神の呼びかけに応えることこそが、その使命であることを。彼らは、聖書の創世記を思い出した。土で創られたものに神が生命の息を吹き入れられたとき、「人は生きる者」となった、との箇所を。彼らはイエスと出会い、第二の創造を経験した。だから、宣教者、イエスのように生きる、神の呼びかけに生きる者として、新しく創られたのであった。これが、聖霊を受けた、ことなのである。私たちも立ち上がれるのです。  
今週の一句
誇らしく 人寄せ付けて 百合の花

―もとゐ―


 2011年6月19日(日)
 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書3章16-18節

3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 神が独り子を与えるほど愛された「世」とは一体何だ。2000年前のユダヤの世界、国民の95%が貧しく飢えていたと言う。5%の人間が富と力を握り、血で血の権力争いを繰り返していた。2000年後の今日の世界も全く同じだ。そんな世界をなぜ神がそれほど愛されるのか。95%の人々の不幸を前に、神の腸のちぎれる程の強い慟哭からではないだろうか。これでは駄目だ。何とかしなければの神の強い思いがあるのではないか。私たちも自分さえ良ければ、と安閑とした生活から、他者の痛みに気づき働くよう、神の願いに応えましょう。  
今週の一句
見上げれば 鷺鳴き交わす 梅雨の朝

―もとゐ―


 2011年6月26日(日)
 キリストの聖体

 ヨハネによる福音書6章51-58節

6,51 〔その時、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6,52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6,53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6,54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6,56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6,57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6,58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 イエスが何であるかについては多くの表現がる。今回、イエスは「天から降ってきたパン」である、とヨハネは述べる。それは、出エジプト物語のマンナに比して言われている。イエスはマンナ以上に、飢えるものではなく、永遠の命に至る食べ物であると言う。出エジプトの理想へ向かう旅、まさに、荒野の旅には食糧以上に、導き、支え、励ます、同行の神が必要だ。それを神の言葉、掟、律法と言う。しかし、イスラエルの人々は神に背き、理想への道から脱落した。そこへ、イエスが新たな生き方、共生を示すものとして登場したのであった。私たちはこのイエスを師とし、その言葉、行いに従って永遠の命、豊かな命を目指すのである。原発から新エネルギーへの転換が議論され始めた。私たちこそ新エネルギー転換を率先して行くことが、イエスを「天からのパン」と信仰告白することなのだ。 

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