2011年6月5日(日) 主の昇天 マタイによる福音書28章16-20節
イエスとの出会いは私たちを変えた。死の陰を行くとも災いを恐れない、あなたの鞭と杖が私たちを守られるから、と詩篇が歌うように。そして、この生きる喜びを私たちが人々にも伝えるようイエスは私たちを派遣される。イエスが天に昇られる、それは、イエスが私たちの人生の「主」となられたことを意味し、イエスを他者に紹介することが、私たちの「人生」であることを確認するのである。 |
2011年6月12日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書20章19-23節
恐怖と悲嘆のうちに沈んでいた弟子たち、彼らを立ち上がらせたのはイエスであった。イエスが目に見えたかどうかは問題ではない。しかし、彼らを宣教へと向かわせたイエスとの出会いがあったのは確かである。 イエスは閉塞状態にあったユダヤ教、即ち、ローマ帝国の支配下、大祭司や貴族はローマとの妥協に生き、神の裁きという終末論的期待にしか生きる希望を持てなくなったファリサイ派は裁きから免れるため極端な律法主義に走り、自己の「清さ」を守ることのみに汲々としていたのであった。そのため、貧しい人、弱い立場の者たちを「罪人」と呼び、「汚れる」と言って関わらずに生きていたのであった。ここに、旧約聖書以来の人間の理想的生き方、他者、就中、弱くさせられた人々との連帯は忘れ去られたのであった。それ故に、貧しい者たちは途端の苦しみを受けていた。イエスはその時代に生きたのであった。イエスがそれら 群衆を見たとき、「飼う者のいない哀れな羊たちを見て、腸のちぎれる程の思いをした」と聖書に書かれている。イエスは立ち上がり、彼らと連帯して、彼ら彼女らの人生が幸あるものになるよう働かれた。しかし、それを反体制の運動と見た、ユダヤ教支配者、ローマ帝国から政治犯として処刑されたのであった。しかし、イエスに従った弟子たちは、そのイエスの生き様に神の呼び掛けに徹底的に応えられた「神の子」としての姿を見出したのである。そこに、彼らは光明を見出した。人はイエスのように神の呼びかけに応えることこそが、その使命であることを。彼らは、聖書の創世記を思い出した。土で創られたものに神が生命の息を吹き入れられたとき、「人は生きる者」となった、との箇所を。彼らはイエスと出会い、第二の創造を経験した。だから、宣教者、イエスのように生きる、神の呼びかけに生きる者として、新しく創られたのであった。これが、聖霊を受けた、ことなのである。私たちも立ち上がれるのです。 |
2011年6月19日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書3章16-18節
神が独り子を与えるほど愛された「世」とは一体何だ。2000年前のユダヤの世界、国民の95%が貧しく飢えていたと言う。5%の人間が富と力を握り、血で血の権力争いを繰り返していた。2000年後の今日の世界も全く同じだ。そんな世界をなぜ神がそれほど愛されるのか。95%の人々の不幸を前に、神の腸のちぎれる程の強い慟哭からではないだろうか。これでは駄目だ。何とかしなければの神の強い思いがあるのではないか。私たちも自分さえ良ければ、と安閑とした生活から、他者の痛みに気づき働くよう、神の願いに応えましょう。 |
2011年6月26日(日) キリストの聖体 ヨハネによる福音書6章51-58節
イエスが何であるかについては多くの表現がる。今回、イエスは「天から降ってきたパン」である、とヨハネは述べる。それは、出エジプト物語のマンナに比して言われている。イエスはマンナ以上に、飢えるものではなく、永遠の命に至る食べ物であると言う。出エジプトの理想へ向かう旅、まさに、荒野の旅には食糧以上に、導き、支え、励ます、同行の神が必要だ。それを神の言葉、掟、律法と言う。しかし、イスラエルの人々は神に背き、理想への道から脱落した。そこへ、イエスが新たな生き方、共生を示すものとして登場したのであった。私たちはこのイエスを師とし、その言葉、行いに従って永遠の命、豊かな命を目指すのである。原発から新エネルギーへの転換が議論され始めた。私たちこそ新エネルギー転換を率先して行くことが、イエスを「天からのパン」と信仰告白することなのだ。 |
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