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2011年3月6日(日) 年間第9主日 マタイによる福音書7章21節-27節
イエスの時代、民衆は飢え裸で病気であった。明日どころか今日一日生きて行くのが精一杯であった。そんな人々に「思い煩うな」とイエスは言わなかっただろう。呼び掛けられたのは、私たち日々の糧に苦労しない者たちであっただろう。 私たちの利己主義、小さくされた者への無関心が、更に、人々を困窮させていることへと、目を開けるようイエスは私たちを招かれているのではないだろうか。 私たちがいくら一生懸命ミサを祝ったところで、小さくされた人々への無関心を続けるなら、天の父は喜ばれないと、イエスは叫ばれているのだ。 |
2011年3月13日(日) 四旬節第一主日 マタイによる福音書4章1節-11節
世界は揺れている。日本でも11日地震があり死者も出た。地殻だけではない、中東や北アフリカの動乱、飢餓や病気、等などが世界を揺らしているのだ。私たちは救い主イエスに何を期待するのか。全知全能の神として、世界の混乱や苦悩から私たちを救い出すことをか。 イエスの荒野での試みは、私たちがこれらの問題にどう立ち向かうべきかを教えている。即ち、神を試すこと、神以外のものへ従うことを退け、神の言葉のみに従ったイエスの姿を示している。他者への奉仕、献身が世界の困難に立ち向かう道であることを教えている。 |
2011年3月20日(日) 四旬節第二主日 マタイによる福音書17章1節-9節
信仰は「聴く」ことから始まる。出エジプトしたイスラエルの民はシナイ山にて神の言葉、指示をモーセを通して聴き、従うと神と約束を交わした。しかし、その道は険しくまさに「荒野」の旅であった。民はその困難さゆえ、ヤハーウェの神ではなく、即物的利益を与える「金の子牛」像を拝むことをした。約束を破棄した民を神が罰するのは当然だ。それが、イスラエル王国の滅亡となった、と聖書は考える。 今、未曾有の危機にある日本であるが、その難局を乗り切るには正しい言葉に「聴き」従わねばならない。「今日こそ、神のことば即ち、他者と共にあれ」を聴こう。 |
2011年3月27日(日) 四旬節第三主日 ヨハネによる福音書4章5節-42節
ヨハネ福音書では身近な事柄を使って読者をして深い意味へと導く。水は肉体の生存に不可欠であるが、それだけでは、人生を導かない。導くものはイエス、即ち、神の言葉である。水同様に人は人に依存して生きて行く。それは、一つの宗教を信じる、礼拝に繋がる。しかし、偶像にではなく、真実なるものを、そして、利己主義的礼拝ではなく、他者への愛と配慮を捧げ物とする礼拝でなければならない。やはり、その真理と霊の依存、礼拝もイエス、神の言葉が私たちを導くのである。 |
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