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2011年2月6日(日) 年間第5主日 マタイによる福音書5章13節-16節
イエスの弟子であることは、「地の塩」「世の光」になること。即ち、世に同化、同調しないで生きる者になること。世への同調は大勢に従い、強い者への礼拝となる。イエスは弱くされた人々の痛みに自分を重ねられた。足を踏み続ける者たちへ足をのけなさい、と訴えられた。 私たちはまず踏む者側から身を引こう。 |
2011年2月13日(日) 年間第6主日 マタイによる福音書5章13節-16節
マタイは続けて、イエスの弟子として高い倫理的生き方を要求する。これもまた、イエスの生きざまを示している。イエスは誰もが「神の子」として大切にされ、自由に生きられることを願った。大切にされるのはファリサイ派の考えるように優秀であるとか、役に立つからとかの何らかの条件があって、それに叶うからという見返りではない。無条件のそのまま、「ある」ことこそ大切にされる、と言うのがイエスの主張であった。だから、イエスは「幸い、貧しい者」と言いきれたのだ。(マタイではニュアンスが変わり条件になっている)だから、その倫理的要求は守らなければ、幸いになれない、と言うことではない。神から大切にされているものとして、生きるべき方向となる。そして、人を大切にすることが何であるかを示している。 さあ、喜んでイエスの道を進もう。 |
2011年2月20日(日) 年間第7主日 マタイによる福音書5章38節-48節
「悪人に手向かうな、敵を愛しなさい。」これらイエスの言葉にはたじろいてしまう。凶悪犯罪事件の被害者の「ゆるせない、極刑を」の叫びに頷いてしまう。 もし、当事者となったらば、同じことを言うだろう。しかし、私たちの先行く者には、和解し、ゆるした人たちがいる。イエスであり、キング牧師、9・11のある被害者の家族、その他の人たち。まず、彼・彼女たちから学ぼう。また、今、世界で命を奪われている人々を思い出そう。そして、暴力のない平和な世界を一刻も早く造り出そう。 |
2011年2月27日(日) 年間第8主日 マタイによる福音書6章24節-34節
キリストの弟子は金の奴隷になるのではなく、即ち、衣食住に思い煩うのではなく、神に仕える、つまり、神のみ心がこの世界に実現すること、言いかえれば、衣食住に不自由しない世界を構築しなさい、とイエスは呼び掛ける。 ニュージーランドの地震や中東の反政府運動は人の命のはかなさと権力の横暴を見る。自然災害には無力ではあるが犠牲を少なくする努力は怠ってはならない。 また、不平等であることはゆるされないのだ。従って、安全で平和、そして平等な世界を築くことこそがまず求められなければならない。そこでは、もう己の衣食住への思い煩いから解放されるのである。 |
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