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2011年1月1日(土) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
最も小さくされた羊飼いたちに告げられた、「救い主」誕生の知らせ。それは、彼らが望んでいる「正当」に扱われることへの実現の言葉だ。しかし、今なお、それは実現されていない。彼らを不当に遇する力ある者たちの回心がなされていないから。新年の始めにあたり、実現への一歩の年になるよう、回心し、踏み出そう。 |
2011年1月2日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
小さくされた人と共に生きるイエスはこの世の権力者からは邪魔者とされる。そのイエスに従うキリスト者もそう見なされるはずだ。しかし、「いい人」として受け入れられているのは、如何なものか。だから、小さくされた人たちは「不当」にしか扱われないこととなる。つまり、キリスト者はまた彼らを「不当」に遇しているもだ。 そんなことは止めたい。ヘロデではなく神に従った占星術の博士のように、「小さくされた人」の声に聴き従おう。 |
2011年1月9日(日) 主の洗礼 マタイによる福音書3章13節-17節
占星術の学者たちはこの世の王であるヘロデにではなく、「いのち」の主である神に従った。 イエスは青年期をその当時のユダヤ教にある様々な思想潮流を彷徨ったことだろう。如何に生きるべきか、青春の悩みそのものを問うて。そして、その一つである洗礼者ヨハネのもとにも一時期留まったことだろう。当時のユダヤ教にはいわゆる自力本願が主流であった。即ち、祭儀にしろ律法にしろ、それをどれだけ守るかによって救いが決定された。しかし、それは「救われる者」と「救われない者」恣意的に分け、前者が後者を差別抑圧することとなった。現代の教会でも「信者」「未信者」と分け、差別しているが。 イエスは洗礼者ヨハネのもとでの修業中、決定的な声を聴いた。「この世」即ち、人の声にではなく「神の声」、即ち、「いのち」の声に従うようにと。ここに、洗礼の意味、神の子としての出発点がある。 |
2011年1月16日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章29節-34節
洗礼者ヨハネは十字架刑死したイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだ。それでは、現代の私たちはイエスを何者と言うのだろうか。小さくされた人と共にあり、権力者と非暴力無抵抗主義で闘っている人々の先達者と言えるのではないか。従って、イエスの後を行く私たちキリスト者はまたその闘いにあろうとするのではないだろうか。 |
2011年1月23日(日) 年間第3主日 マタイによる福音書4章12節-23節
洗礼者ヨハネが「神の子羊」「神の子」と紹介したイエス、また、福音記者マタイが暗闇に住む民の光と呼んだ。そのイエスの宣教活動が始まる。私たちもその後について見てみよう。 まず、「暗闇に住む民」とは誰か。イエスは真っ先に、弟子を集めにいった。もちろん、暗闇に住む人のところへ。弟子に呼ばれた人は何故、暗闇に住んでいるのか。一見、家族もあり生業も持っているから、それなりの幸いが与えられている。まさに、彼らは現代の中流家族だ、とりあえずの衣食住には不自由しない。 しかし、彼らの人生はどこに向かっているのだろうか。イエスは呼び掛ける、「従いなさい。」即ち、今日の衣食住に不自由な人々のところへ行こうじゃないか、と。ペテロたちに閉塞した人生に穴が開けられた。光が射し込んで来たのだ。 人の命は他の人と共にあることをイエスは示されたのだ。私たちは自分の人生が穴倉に落ち込んでいないか省察しよう。 |
2011年1月30日(日) 年間第4主日 マタイによる福音書5章1節-12a節
イエスはペテロたちを呼んだ。ペテロたちはイエスを先頭に新しい人生へと出発する。マタイはイエスを師とする生き方が何かをまず示す。それが「山上の説教」と言われるものだ。だから、そこにはイエスが誰であり何であるかを語っている。 イエスは人のあるべき姿を示された。それは誰もが正当に扱われることだ。パン一片のため盗み、囚われ、刑を受けなければならない人がいる世の中ではなく、誰もの空腹が満たされるよう関わり合う人にいる社会を目指された。「貧しい人」「飢えた人」「泣く人」が幸いになるように。弟子としての道も同じだ。イエスを救い主として信じるとは、イエスと同じように生きることを神と約束することなのだ。 |
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