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2010年11月7日(日) 年間第32主日 ルカによる福音書20章27節-38節
聖書の語る神は、私たちを天国、来生への幸福に連れて行くものではない。確かに、紀元前二世紀頃から、シリア王朝時代の厳しい迫害下にあって終末・黙示思想が生まれ、裁きや永遠の命への希望が持たれるようになった。しかし、聖書の神は、現在、今、如何に生きるべきか、あるべきかを示す方、即ち、「生きている者」の神である。 ザアカイは生きたかった。街の人たちと協力し合って生きたかった。しかし、徴税人の頭として軽蔑され、忌み嫌われた者でしか扱われなかった。そのザアカイをイエスは友とした。初めて認められ、受け入れられたザアカイは新しい生き方へと出発した。ここに、どう生きるべきかが示されている。 互いを認め、受け入れ、共に生きること。そこに、神いる、救いがある。 |
2010年11月14日(日) 年間第33主日 ルカによる福音書21章5節-19節
イエスは80年もかけて建設されたヘロデの大神殿が跡形もなく崩れ去ることを見ていた。何故なら、人が命を賭けるのは相対的有限的な人間にではなく、絶対者、神に賭けろと呼び掛けるためであった。 イエスの眼差しは、有限な人間の働きには向かない。絶対者の働きに向いている。例えば、律法主義的な生き方、守るか守らないかに人間の価値を置かない。それにおいては、有限的相対的基準によって人を優劣に分け、劣者を排除することとなるから。イエスの時代の「罪人」とはそうやって分けられた人々であった。それを、イエスは神なる絶対者から人を見た、ザアカイもまた神の子であり、乞食の盲人もそうである.人の歴史には終わりがある。しかし、神には終わりがない。 神に目を心を向け、神に向かって生きよう。 |
2010年11月21日(日) 王であるキリスト ルカによる福音書23章35節-43節
盗賊二人と共に十字架刑にあったイエス。イエスは一人の盗賊からの罵りにも無言であった。しかし、他の一人といっしょに父のもとへと旅立った。ここに、「王」であり「メシア=救い主」の徴がある。それは、また、イエスがベツレヘムの馬小屋で生まれた物語にも共通している。奇跡を起こし、偉大な勝利をもたらすものとしての「王」ではない、卑賤な、弱く、虐げられ、排除される「小さくされた者」と共に居られる「王」がイエス・キリストであると、福音書は語っている。そのイエスについて行くことが私たちの信仰なのだ。 |
2010年11月28日(日) 待降節第1主日 マタイによる福音書24章37節-44節
待降節が始まります。キリストの再臨と降誕を待ちます。 今、私たちがキリストの来臨を待つとはどんな意味があるのでしょうか。 何一つ不自由ない暮らしをしている私たちが何を待つと言うのでしょうか。現状維持を願うのみでしょう。しかし、目を転じれば、世界は悲惨に満ち溢れています。その悲しみが一つでも減ることを願わずにはいられません。そのためには、立ち上がるしかありません。そう、実は、キリストは私たちの立ち上がりを待っているのです。 |
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