ももちゃんの一分間説教



今週の一句
老女らの 朝の散歩道 彼岸花

―もとゐ―


 2010年10月3日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5節-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 イエスの道は神の国を広めること。言いかえれば、だれもが人生を喜びと感謝のうちに生きられるようになること。貧困や病気、職業や性差、年齢によって差別され、人生を苦難のうちに歩まされないようにすることだ。だから、イエスは一人一人を尊重された。父である神が失った羊を捜し続ける方であることを示すために。

 使徒たちの「信仰を増してください」の叫びは、その尊重できるように、「小さい者、子ども」と言われる人たちを受け入れ、仕える者になりたいと願いながらも、その実行の困難さ故の叫びではないだろうか。彼らに対しイエスは答える「嘆くなかれ、やれば出来る」と。信仰はマジックではない、「変わる、変える」という切望ゆえに、進む、飛び込む、する、何度もチャレンジし続けることではないだろうか。一人ひとりが尊重される世界の実現のために。    
今週の一句
金木犀 夜更けの帰宅 迎え出て

―もとゐ―


 2010年10月10日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11節-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17,17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 私たちはイエスとの出会いによって、神の呼び掛けに生きる決意をした。いわゆる、これを洗礼と言う。神はイエスを通して幸いへの道を示される。「小さくされた者」を躓かせるな。放蕩息子やラザロのような「小さくされた者」と歩むことを。私たちはそこに人生の喜びを見つけた。けれど、その恩義を忘れ、即物的快楽に虜にされ、何を食べ、飲み、着るかに思い悩み、イエスの道から外れてしまいがちだ。「信仰」とは神の望みを誠実に生きることなのだ。
今週の一句
コスモスや 大空を舞う 少女かな

―もとゐ―


 2010年10月17日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1節-8節

18,1 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18,4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 熱心に祈れとイエスは勧める。「祈り」は確かに神への嘆願であろう。しかし、同時に人への呼び掛けでもある。今回の寡婦のように正当な権利を奪われた人たちの痛切な権利回復を求めている。何故なら、寡婦らを擁護するものは神以外に誰がいようか。しかし、それを聴く私たち(彼女の上に立つ者)に行動を呼び掛ける。彼女が正当に生きられるように。しかいないから。私たちが祈る「主の祈り」の日毎のパンを求めるとき、それは自らの要求ではないし、なり得ない。むしろ、日毎の食に事欠く人々への関心であり、行動を促すものであろう。祈っておわりではない。立ち上がり、』飢えをなくすための関わりすることが大事となる。それが、神が聴き届けられるということだ。さあ、熱心に祈ろう。      
今週の一句
秋祭り きらめく熟年 バンドトリオ

―もとゐ―


 2010年10月24日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9節-14節

18,9 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 私たちの信仰はこの世の価値観に従って生きるのではなく、神のみ心、神の言葉に従って生きること。今日の譬えでは、神の前で生きる両者を描いているが、まるきり違う姿を示している。ファリサイ派の人は神の報いを要求するほど自信満々な人。謂わば、優等生。他方、徴税人は神の憐れみにすがるしかない、謂わば、劣等生。神が目を留められるのは、これまでの福音から明らかであろう。例えば、いなくなった羊を捜す羊飼い、放蕩息子の帰りを待ち続ける父親、不正な管理人を誉める主、権利擁護を訴える寡婦を誉めるイエス、天上の宴に招かれたラザロ等々。しかしながら、徴税人は決して「罪人」ではない、忌み嫌い差別して、貧しく小さくさせる人々がいるからこそ、そう呼ばれるだけ。人はそう呼ばれて小さくなって劣等生としてしか生きられないその人を思う時、心がいたまないだろうか。また、逆に、ファリサイ派的余裕を持って生きられる優等生の境遇にある者は、その恵みに感謝しないはずがないだろう。けれど、ファリサイ派の人は出来なかった。むしろ、自分を誇り、徴税人を軽蔑したのであった。

 神の前で、神のみ心に生きると言いながら、ファリサイ派の人は憐れみや連帯ではなく、利己的に生きたのではなかっただろうか。

 神がまず私たちを憐れみ、共に居てくださったのではないか。再び、そこに立ち戻り、愛と連帯に生きよう。         
今週の一句
秋の日は うたたね楽し 置き土産

―もとゐ―


 2010年10月31日(日)
 年間第31主日

 ルカによる福音書19章1節-10節

19,1 〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19,2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19,3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19,4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19,5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19,6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19,7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19,8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19,9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19,10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエスは神の国、謂いかえれば、幸いを目指して旅をする。その旅に参加する人は無条件であるが、行く人は限られている。世間から弾かれる人がついて来る。

 例えば、神殿で胸を打ちながら祈っていた徴税人、エリコの町の物乞いしていた盲人、そして、徴税人の頭ザアカイ、等など。彼らは世間なかんずく正統派信仰の篤い人たちから「負」と評価されている者たちであった。後者はイエスの旅には従わなかった、何となれば、正統派が故に、この世的幸いを得たかったから。イエスの財産をすべて貧者に施してから、従えの声に心を閉ざした、自分の立場から「出なかった」のであった。前者はこの世的幸いではなく、真の幸いを目指していた。だから、持っているものを捨てた、即ち、神に委ね、立ちあがって、叫んで、木に登った、自分の場所から「出た」のであった。

 イエスの幸い、私たちも目指すなら「出」なければならない。        


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