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2010年9月5日(日) 年間第23主日 ルカによる福音書14章25節-33節
イエスの後を歩む道は「放棄」、捨てる道。この世の「幸福」は得ること。子ども、財産、友人、知識、肩書き、等などの量が幸いを測る。ヨブ記では、主人公のヨブが理不尽にも家族、財産、健康を失い、不幸のどん底に落ちたことを神に訴えていから、旧約でも「幸福」は「持つ」ことと考えられている。それに対し、イエスは「捨てる」ことを勧めている。何故なら、イエスの周りにいたガリラヤの人々は豊かな土地にも関わらず、貧しく病んでいた。その理由は、金持ちが土地を所有し、人々は小作人か日雇労働者で酷く搾取され続けられていたから。現代の大企業による巨悪の利潤と派遣労働者の貧困は同じことだ。つまり、一部の人の「持つ」ことが他者を貧しくし、死に至らしめていたのであった。その状況をつぶさを見ていたからイエスは「捨てる」ことが幸いであり、他者との共生になると思い至った。 イエスは私たちを自己だけの幸いから他者との共生に「幸福」があることを教えてくれた。イエスの後をついて行こう。「捨てる」道を。 |
2010年9月12日(日) 年間第24主日 ルカによる福音書15章1節-10節
イエスと歩む「幸せ」の道は、「目覚める」、「狭い戸口」、「お返しの出来ない人を宴会に招く」、「放棄」、の道。今日の福音ではその道を如何に歩んだら良いかが語られている。 まず、弟。父を離れ、自由と幸いを得ようとした。しかし、自力では道を誤り、食べ物にさえ不自由し幸も失った。やっと、我に返った、父の下へ帰ろう。どん底に落ちて、初めて父の有難さに気付いたのだった。 他方、兄、父に従ってさえいれば、必ず、報われ幸せになると。ところが、彼は自由ではなかった。喜んで父に従っているのではなく生活の保障と将来の安定という打算でそうしていたのだ。だから、不平不満があっても、父には打ち明けられなかった。優等生を演じていた。しかし、弟の帰還と父の喜びぶりを目の当たりにし、怒りが爆発した。自分は貧乏くじを引いていると、弟も父をも恨み憎んだ。 この両者に対し、父は出迎え、抱擁し、なだめ、祝宴に招き入れた。つまり、父は彼らとより添い、彼らの隣り人となった。しかも、世間からの非難を一身に浴びてさえも。 父は私たちが過ちを犯し、滅びるのを決して望まない。私たちが何度も立ち上がり、再度歩むことをこそ希望される。 今日もイエスは私たちにこの父、インマヌエルとその道を歩もうと呼び掛けている。 |
2010年9月19日(日) 年間第25主日 ルカによる福音書16章1節-13節
イエスの道は幸せへの道。しかし、そこへ至るには試練や困難が一杯。特に、イエスの周りにいた人々は貧しい者、病人、外国人、等の「小さくされた人々」、放蕩息子のように「罪人」とレッテルを貼られ社会の片隅に追いやられ、命も人権も疎かにされる人々だった。幸せになる夢さえももてなかった。現代では、ホームレスや障がい者、外国人労働者、等の人たちになる。 イエスはその情況を憤慨した。そんなこと、神がゆるすわけない、神はこれらの人々こそが「幸い」なるよう望まれているはずだ。私は神のみ心が実現するよう働く、と言って「神の国」を宣教したのだった。しかし、そのためには、人を「小さくして」その上に生きる権力者と追随する中間層、現代では、派遣労働者を使い捨てにする経営者とそのおこぼれに与る正規労働者であろう、との闘いをしなければならなかった。 やはり、キング牧師は黒人の人権といのちを得るために、白人と闘わねばならなかった、非暴力で。 イエスの闘いは金、マモンに仕えるのではなく、神、小さくされた者を大切にする方に従った結果であった。 現代に生きる教会のあり方はそこにこそある。 |
2010年9月26日(日) 年間第26主日 ルカによる福音書16章19節-31節
イエスの道は幸いへと続く。イエスは小さくされた人々の側に立ち続ける。イエスの神もまた乞食ラザロの側にいた。それを見た大金持ちは地団駄を踏んだが時遅し。大金持ちがどう生きるかは聖書を通して神が語っていた。神の言葉を守るという神との約束に生きるユダヤ教徒であるにもかかわらず、大金持ちは約束をまもらなかった。彼は神の言葉に耳を貸さず、ラザロに目もくれず、自己の快楽のみに生きていたのであった。 わたしたちキリスト教徒も、イエスをとおした神の言葉を守らず、ただ、「主よ、主よ」と言うだけでは大金持ちと同じ結果になるだろう。今、大いに回心しろ、と言うのがイエスの慰めの声ではないだろうか。 |
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