ももちゃんの一分間説教



今週の一句
長月や 大地潤い 朝の雨

―もとゐ―


 2010年9月5日(日)
 年間第23主日

 ルカによる福音書14章25節-33節

14,25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14,26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14,27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14,28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14,29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14,30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14,31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14,32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14,33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 イエスの後を歩む道は「放棄」、捨てる道。この世の「幸福」は得ること。子ども、財産、友人、知識、肩書き、等などの量が幸いを測る。ヨブ記では、主人公のヨブが理不尽にも家族、財産、健康を失い、不幸のどん底に落ちたことを神に訴えていから、旧約でも「幸福」は「持つ」ことと考えられている。それに対し、イエスは「捨てる」ことを勧めている。何故なら、イエスの周りにいたガリラヤの人々は豊かな土地にも関わらず、貧しく病んでいた。その理由は、金持ちが土地を所有し、人々は小作人か日雇労働者で酷く搾取され続けられていたから。現代の大企業による巨悪の利潤と派遣労働者の貧困は同じことだ。つまり、一部の人の「持つ」ことが他者を貧しくし、死に至らしめていたのであった。その状況をつぶさを見ていたからイエスは「捨てる」ことが幸いであり、他者との共生になると思い至った。

 イエスは私たちを自己だけの幸いから他者との共生に「幸福」があることを教えてくれた。イエスの後をついて行こう。「捨てる」道を。 
今週の一句
台風一過 寝苦しき夜 運び行く

―もとゐ―


 2010年9月12日(日)
 年間第24主日

 ルカによる福音書15章1節-10節

15,1 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15,2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15,3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15,4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15,5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15,6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15,8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15,9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 イエスと歩む「幸せ」の道は、「目覚める」、「狭い戸口」、「お返しの出来ない人を宴会に招く」、「放棄」、の道。今日の福音ではその道を如何に歩んだら良いかが語られている。

 まず、弟。父を離れ、自由と幸いを得ようとした。しかし、自力では道を誤り、食べ物にさえ不自由し幸も失った。やっと、我に返った、父の下へ帰ろう。どん底に落ちて、初めて父の有難さに気付いたのだった。

 他方、兄、父に従ってさえいれば、必ず、報われ幸せになると。ところが、彼は自由ではなかった。喜んで父に従っているのではなく生活の保障と将来の安定という打算でそうしていたのだ。だから、不平不満があっても、父には打ち明けられなかった。優等生を演じていた。しかし、弟の帰還と父の喜びぶりを目の当たりにし、怒りが爆発した。自分は貧乏くじを引いていると、弟も父をも恨み憎んだ。

 この両者に対し、父は出迎え、抱擁し、なだめ、祝宴に招き入れた。つまり、父は彼らとより添い、彼らの隣り人となった。しかも、世間からの非難を一身に浴びてさえも。 

 父は私たちが過ちを犯し、滅びるのを決して望まない。私たちが何度も立ち上がり、再度歩むことをこそ希望される。

 今日もイエスは私たちにこの父、インマヌエルとその道を歩もうと呼び掛けている。 
今週の一句
秋雨や 布団引き寄せ 夢の途中

―もとゐ―


 2010年9月19日(日)
 年間第25主日

 ルカによる福音書16章1節-13節

16,1 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16,2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16,3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16,4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16,5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16,6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16,7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16,8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16,9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16,10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16,11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16,12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16,13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 イエスの道は幸せへの道。しかし、そこへ至るには試練や困難が一杯。特に、イエスの周りにいた人々は貧しい者、病人、外国人、等の「小さくされた人々」、放蕩息子のように「罪人」とレッテルを貼られ社会の片隅に追いやられ、命も人権も疎かにされる人々だった。幸せになる夢さえももてなかった。現代では、ホームレスや障がい者、外国人労働者、等の人たちになる。

 イエスはその情況を憤慨した。そんなこと、神がゆるすわけない、神はこれらの人々こそが「幸い」なるよう望まれているはずだ。私は神のみ心が実現するよう働く、と言って「神の国」を宣教したのだった。しかし、そのためには、人を「小さくして」その上に生きる権力者と追随する中間層、現代では、派遣労働者を使い捨てにする経営者とそのおこぼれに与る正規労働者であろう、との闘いをしなければならなかった。

 やはり、キング牧師は黒人の人権といのちを得るために、白人と闘わねばならなかった、非暴力で。

 イエスの闘いは金、マモンに仕えるのではなく、神、小さくされた者を大切にする方に従った結果であった。

 現代に生きる教会のあり方はそこにこそある。
今週の一句
名月や ウオ―キング弾む 笑い声

―もとゐ―


 2010年9月26日(日)
 年間第26主日

 ルカによる福音書16章19節-31節

16,19 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16,20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16,21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16,22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16,23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16,24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16,25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16,26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16,27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16,28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16,29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16,30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16,31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 イエスの道は幸いへと続く。イエスは小さくされた人々の側に立ち続ける。イエスの神もまた乞食ラザロの側にいた。それを見た大金持ちは地団駄を踏んだが時遅し。大金持ちがどう生きるかは聖書を通して神が語っていた。神の言葉を守るという神との約束に生きるユダヤ教徒であるにもかかわらず、大金持ちは約束をまもらなかった。彼は神の言葉に耳を貸さず、ラザロに目もくれず、自己の快楽のみに生きていたのであった。 

 わたしたちキリスト教徒も、イエスをとおした神の言葉を守らず、ただ、「主よ、主よ」と言うだけでは大金持ちと同じ結果になるだろう。今、大いに回心しろ、と言うのがイエスの慰めの声ではないだろうか。    


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