ももちゃんの一分間説教



今週の一句
空蝉や 壁に残して 空高く

―もとゐ―


 2010年8月1日(日)
 年間第18主日

 ルカによる福音書12章13節-21節

12,13 〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12,14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12,15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12,16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12,17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12,18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12,19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12,20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12,21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 「主の祈り」を祈る度に私たちが何を求めるべきかを教えてくれる。聖書の民が二度と奴隷の頸木につながれないような、理想の国、即ち、神の国を実現しようとする熱き思いを。

 富は人を誤らせ、奴隷にしてしまう。現代の資本主義は労働者をはじめとし、地球そのものをも破壊尽くす上に成っている。最近の米国での海底油田爆発事故もその典型だ。

 富からの自由、それは、レビ記や申命記にあるように、絶えず、弱い立場の人々への配慮から来るのではないだろうか。まさに、「主の祈り」の日毎のパンを求めるのは、得られない人々を思い出し、与える者になれとの呼び声を「聴く」ことではないだろうか。

 なぜならば、私たちは毎日十分すぎるほどのパンを与えられているから。 
今週の一句
朝顔や 熱帯夜あけて 深き藍

―もとゐ―


 2010年8月8日(日)
 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32節-48節

12,32 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12,33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12,34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12,35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12,36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12,37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12,38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12,39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12,40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12,41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12,42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12,43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12,44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12,45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12,46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12,47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12,48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 イエスの道は、「神の国」を求める道。自分の欲求を満たすのではなく、神の心の実現、即ち、すべての人が自由に、平等に生きられることを望む。従って、「獲得」ではなく「分かち合う」人生を選ぶ。痛ましい事件が相次ぐ。身内の高齢者の放置や我が子への虐待、等。被害者を思うとき、二度とあってはならないと願うばかりだ。生きることは「生かされる」ことならば、犠牲者を生む社会となってはならない。「目覚めて、用意する」とは、そのことだろう。犠牲者を出さない、作らない、無関心であってはならない生き方をするよう、イエスは私たちに呼びかけている。 
今週の一句
ふと見れば 蜻蛉舞いけり 秋立ちぬ

―もとゐ―


 20010年8月15日(日)
 聖母の被昇天

 ルカによる福音書1章39-56節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1,46 そこで、マリアは言った。
1,47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1,48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1,49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1,50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1,51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1,52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1,53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1,54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1,55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1,56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 聖書の「神」は、「人間のあるべき姿、理想」、との謂いであると言われる。だから、ことば、呼び掛けと表現される。従って、聖書の信仰は、「教義」を信じることではなく、どう生きるかが問われる。マリアは女性としてのあるべき生き方をした、即ち、神の呼び掛けに応えた先達者の一人となった。

 「目を留められた」。エリサベトとマリアがその神を崇め、感謝している。抑圧と差別の苦しみにいた二人は、人間がどうあるべきかを必死に探った。そして、目覚めた。差別と抑圧、暴力のない平等で平和な世界を目指すこと、これこそが、自分たちの生きることだと。それを、神が私たちに「目を留められた」と言う。

 寂しい、孤独な私に目を掛けてくださった、だけではない。

 「マニフィカット」。聖書の民は、元来、ヘブライと言う難民を強いられた人々であった。彼らを、故国から追放し、権利を奪い、死を強制する力ある人々からの解放を切に願った。だから、自分たちが定住し、富と力を持ったとき、寄留の民、孤児、寡婦を虐げないように、権利・生命を保護することを神と約束したのであった。つまり、「人間のあるべき姿」を選らんだ。しかし、その約束は守られず、イスラエル王国は滅び、捕囚となった。マリアは目覚め、イエスは、まさに、人間のあるべき姿、平等で自由な、暴力、貧困、差別、抑圧のない世界、即ち、「神の国」を身を以て生きられた方であることを謳い上げ、そして、イエス
との協働を呼び掛けている。

 日本のキリスト者は、「権力ある者」、「富める者」の側にいる。マリアたちを苦しめている側に立っている。エリサベトの嘆きを減らす生き方をしよう。
今週の一句
音昇り 大地に降りし 大花火

―もとゐ―


 2010年8月22日(日)
 年間第21主日

 ルカによる福音書13章22節-30節

13,22 〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13,23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13,24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13,25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13,26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13,27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13,28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13,29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13,30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 イエスの時代、人々は終末の裁きをパスし、神から義とされて新しい天地に入ることを幸いとした。それには、様々な道があった。ファリサイ派や律法学者のように律法や祭儀の順守、エッセネ派のようにより厳格な律法順守と禁欲生活を通して、等。しかし、それらは律法を守ると言いながら、神に従うのではなく、人に従う、人から義とされるのであって、弱い立場の者たちを裁き、排除することとなった。例えば、「安息日の掟」を字面だけ守って、18年間病に苦しむ女性には無関心であった。ところが、イエスの場合、神の言葉を喜んで行うことが、神の義とされること、幸いであった。例えば、上記の女性と関わられたこと。

 現代人も幸いを追求している。富、権力、マイホームを手に入れることを幸いと言うかもしれない。しかし、キリスト者、神のみ言葉に生きることを約束した者にとっての幸いは、喜んで、弱くさせられた人々と共に生きて行くことだ。何となれば、キリスト者こそ「弱い人間」に神が共にいてくださるから。 
今週の一句
台所 手止め聴き入る 虫の声

―もとゐ―


 2010年8月29日(日)
 年間第22主日

 ルカによる福音書14章7節-14節

〔安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。〕
14,7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14,8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14,9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14,10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14,11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14,12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14,13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14,14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 幸いは「狭い戸口」から入れがイエスの言葉。イエスは神の言葉を聴き、それに応えた。決して、その道は誰もが歓迎する広い道ではなかった。この世の力ある人々にとっては生き方を変えろ、富を分かち合え、とのイエスの言葉と行いは目ざわり、封殺すべきものであった。何故なら、上席に居座り続けたかったから。

 しかし、イエスは怯まなかった。小さくされた人々が大切にされるため、つまり、宴会に招かれるために。そして、最後はこの世が最も唾棄すべき十字架刑に処せられた。まさに、狭い戸口からあの世へと旅立った。その生きざまを見た人々は、神からの幸いを得たと信じた。

 私たちも、この信仰のもとイエスについて行こう。狭い戸口から入ろう。


戻る