ももちゃんの一分間説教



今週の一句
並んで出迎え アガパンサス

―もとゐ―


 2010年7月4日(日)
 年間第14主日

 ルカによる福音書10章1節-12節

10,1 〔そのとき、〕主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
10,2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
10,3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
10,4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
10,5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
10,6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
10,7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
10,8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
10,9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10,10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
10,11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
10,12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 イエスは神の国の告知のため72人を派遣した。

 私たちキリスト者は同様に派遣された者だ。何となれば、イエスとの出会いにより、イエスの人生が私たちの目標と与えられたからだ。09年度の自殺者の統計が発表されたが、また、3万人を超えている。彼・彼女たちが、イエスと出会っていれば、違う生き方ができたかもしれない。まず、私たちがイエスとの出会いの喜びを生きてよう。この世の価値ではない「持つ」生き方から「ある」生き方、分かち、連帯し、進んで犠牲を払う生き方へ出発しよう。     
今週の一句
勢いの 留まりしらぬ カサブランカ

―もとゐ―


 2010年7月11日(日)
 年間第15主日

 ルカによる福音書10章25節-37節

10,25 〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10,26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10,27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10,28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10,29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10,30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10,31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,32 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10,34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10,35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10,36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10,37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 派遣された72人は喜んで帰って来たと言う。さもありなん、様々な理由で困難に生きることを強いられた人々が、その重荷を解かれ、生きる喜びを与えられたからだ。

 つまり、72人は「隣り人」になったのだ。「隣り人」になるには、譬え話しのサマリア人のように、自分を捨て、十字架を背負うこととなる。しかし、それは強制されるのではなく、他者の痛みを自分のものとして感じる心が必要だ。サマリア人は祭司やレビ人とは違い、心が動いたのだった。他者の痛み、苦しみに敏感でありたい。       
今週の一句
初蝉の 遠き思い出 連れに行く

―もとゐ―


 2010年7月18日(日)
 年間第16主日

 ルカによる福音書10章38節-42節

10,38 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10,39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10,40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10,41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10,42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 キリスト教信仰は永遠の命(幸い)を得る道。その道はイエスが示された後を行く。イエスの道は、神にあって「隣り人」になること。イエスは「隣り人」として生きたので、自分と自分の命を捨てることとなった。

 マルタは一生懸命仕えたが、その前に、一つ忘れていたことがあった。「座って、聴く」ことであった。イエスの道は自分の思いを成すのではない、神の言葉に応える道、つまり、まず、神の声を「座って、聴き」、それから立ちあがること。

 必要な事は、ただ、ひとつ。「聴いて、行うこと」。イエスの道は神のみ心を行う道。
今週の一句
梅雨明けや 白雲湧き出づ 空青く

―もとゐ―


 2010年7月25日(日)
 年間第17主日

 ルカによる福音書11章1節-13節

11,1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11,2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11,3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11,4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11,5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11,6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11,7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11,8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11,9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11,10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11,11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11,12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11,13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 私たちと神の関係は、その言葉を聴いて応えることであった。

 私たちの祈りは人間中心で、神は従になる。あれもこれもと神に要求する。しかし、イエスの祈りは神中心だ。何となれば、神との関係は「聴き」、応えることだから。祈りは、「聴く」こととなる。神の思いは、この世における「神の国」の実現、つまり、「飢えた」人が一人もいなくなること、互いが違いを受け入れ合い、それぞれの重荷を解き放つこと、神以外の声を聴かないことを実践することとなる。「主の祈り」は神の私たちへの呼び掛けが何かをいつも示している。

 立ちあがって、その課題を引き受けて行こう。
 


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