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2010年7月4日(日) 年間第14主日 ルカによる福音書10章1節-12節
イエスは神の国の告知のため72人を派遣した。 私たちキリスト者は同様に派遣された者だ。何となれば、イエスとの出会いにより、イエスの人生が私たちの目標と与えられたからだ。09年度の自殺者の統計が発表されたが、また、3万人を超えている。彼・彼女たちが、イエスと出会っていれば、違う生き方ができたかもしれない。まず、私たちがイエスとの出会いの喜びを生きてよう。この世の価値ではない「持つ」生き方から「ある」生き方、分かち、連帯し、進んで犠牲を払う生き方へ出発しよう。 |
2010年7月11日(日) 年間第15主日 ルカによる福音書10章25節-37節
派遣された72人は喜んで帰って来たと言う。さもありなん、様々な理由で困難に生きることを強いられた人々が、その重荷を解かれ、生きる喜びを与えられたからだ。 つまり、72人は「隣り人」になったのだ。「隣り人」になるには、譬え話しのサマリア人のように、自分を捨て、十字架を背負うこととなる。しかし、それは強制されるのではなく、他者の痛みを自分のものとして感じる心が必要だ。サマリア人は祭司やレビ人とは違い、心が動いたのだった。他者の痛み、苦しみに敏感でありたい。 |
2010年7月18日(日) 年間第16主日 ルカによる福音書10章38節-42節
キリスト教信仰は永遠の命(幸い)を得る道。その道はイエスが示された後を行く。イエスの道は、神にあって「隣り人」になること。イエスは「隣り人」として生きたので、自分と自分の命を捨てることとなった。 マルタは一生懸命仕えたが、その前に、一つ忘れていたことがあった。「座って、聴く」ことであった。イエスの道は自分の思いを成すのではない、神の言葉に応える道、つまり、まず、神の声を「座って、聴き」、それから立ちあがること。 必要な事は、ただ、ひとつ。「聴いて、行うこと」。イエスの道は神のみ心を行う道。 |
2010年7月25日(日) 年間第17主日 ルカによる福音書11章1節-13節
私たちと神の関係は、その言葉を聴いて応えることであった。 私たちの祈りは人間中心で、神は従になる。あれもこれもと神に要求する。しかし、イエスの祈りは神中心だ。何となれば、神との関係は「聴き」、応えることだから。祈りは、「聴く」こととなる。神の思いは、この世における「神の国」の実現、つまり、「飢えた」人が一人もいなくなること、互いが違いを受け入れ合い、それぞれの重荷を解き放つこと、神以外の声を聴かないことを実践することとなる。「主の祈り」は神の私たちへの呼び掛けが何かをいつも示している。 立ちあがって、その課題を引き受けて行こう。 |
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