ももちゃんの一分間説教



今週の一句
紅梅の トンネル潜れば 池青く

―もとゐ―


 2010年3月7日(日)
 四旬節第3主日

 ルカによる福音書13章1節-9節

13,1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
13,2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13,3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13,4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
13,5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
13,6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13,7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13,8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13,9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 イエスの宣教の旅は、人生の旅でもある。その杖、案内、標識、同行者は神である。それが、神を信じるということ。しかしながら、私たちは神を信じる、と言いながら、神の声を聴こうとはせず、ひたすら、自分の欲求、願望を神に叶えさせよとする。従って、不幸を神の所為にする。 

 実のならない無花果はその聴かない私たちだ。だから、イエスは実をならせようと私たちへ呼び掛けるのだ。神のみ旨を聴き、従えと、即ち、互いにゆるし合い、生かし合おうと。 
今週の一句
花簪 手に取って見れば 枝垂れ梅

―もとゐ―


 2010年3月14日(日)
 四旬節第4主日

 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節

15,1 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15,2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15,3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15,11 「ある人に息子が二人いた。
15,12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15,13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15,14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15,15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15,16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15,17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15,18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15,19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15,20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15,21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15,22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15,23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15,24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15,25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15,26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15,27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15,28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15,29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15,30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15,31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15,32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 山上の変容場面では、イエスとの同行の旅において改めて、イエスに聴くよう招かれ、実のならない無花果の話しでも聴いて行うよう呼びかけられた。今日の有名な「放蕩息子」の譬えでも、「聴く」ことの重要性が繰り返されている。聖書の信仰は神の言葉を「聴いて」「応える」ことだ。そして、神からの呼び掛けは「神を愛し隣人を愛する。」ことであった。兄は確かに父の言葉どおり働き、仕えた、宗教的に言えば、礼拝を厳しく守った。が、隣人への関わりを忘れていた。更に、兄の隣人とは兄同様のいわゆる「いい人」に限られていた。父の隣人とは弟のように社会的には落後者とレッテルを貼られる人であったのだ。それゆえにこそ、イエスは十字架刑に処せられたのであった。

 神の呼び掛けを改めて「聴き」応えよう。
今週の一句
柔らかき 光のどけし 春の海

―もとゐ―


 2010年3月21日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書8章1節-11節

8,1 〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
8,2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8,3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8,4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8,5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8,6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8,7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8,8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8,9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8,10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8,11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 神の人への願いは、共生すること、連帯することだ。先週の話しでは、父は息子の弟とも兄とも「共に」居ようとされたのだった。今日の話しでは、自己の正当性を主張し、利益を得ようとするため、人を陥れ、裁き、分断し、命と人権さえ奪おうとする人間の悪しき性が描かれている。

 イエスはそれらに対し、人のあるべき姿を思い起こさせる。人が生きるのは、誰もが生かされ、ゆるされているからだ。非のない人間はいない。だからこそ、人の過ちとの連帯、つまり、理解し受け入れ合うことがだいじではないか。そして、再び、過ちを犯さないよう人生を支え合おうことへ、イエスは私たちを気付かせている。

 日本では裁判員制度が始まり、誰もが人を裁く立場になることとなった。キリスト者として、このイエスのことばに聴き臨むようにしよう。     
今週の一句
花ガ下 毛布包まる 野宿人

―もとゐ―


 2010年3月28日(日)
 枝の主日

 ルカによる福音書19章28節-40節

19,28 〔そのとき、〕イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19,29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19,30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19,31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19,32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19,33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19,34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19,35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19,36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19,37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19,38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19,39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19,40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 イエスは遂にエルサレムへ入って行った。エルサレム、政治・経済・宗教的権威の中枢の象徴である。ガリラヤ出身のイエスから見れば、自分たちの貧困、病気、差別をもたらす元凶であった。イエス以前のガリラヤのユダは過酷な課税に反対し立ち上がり、武力で鎮圧されていた。

 そのエルサレムにイエスは武力ではなく神の言葉を持って入って来た。それは、弱くさせられた人々との連帯への呼び掛けであった。放蕩息子の譬えや、「罪ある女」との物語が語るように。

 私たちの前にもエルサレムの門が聳え立っている。力ある者、富のある者がますます栄えていく世界が。その前では、職を失った若者、障がいのある人々、貧しい高齢者たちが困難を負わされ、喘ぎ苦しんでいる。イエスは私たち信仰者がこれらの人々と一緒に、その困難がなくなるために、門を潜って、その世界を変えて行くように呼びかけている。      


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