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2010年3月7日(日) 四旬節第3主日 ルカによる福音書13章1節-9節
イエスの宣教の旅は、人生の旅でもある。その杖、案内、標識、同行者は神である。それが、神を信じるということ。しかしながら、私たちは神を信じる、と言いながら、神の声を聴こうとはせず、ひたすら、自分の欲求、願望を神に叶えさせよとする。従って、不幸を神の所為にする。 実のならない無花果はその聴かない私たちだ。だから、イエスは実をならせようと私たちへ呼び掛けるのだ。神のみ旨を聴き、従えと、即ち、互いにゆるし合い、生かし合おうと。 |
2010年3月14日(日) 四旬節第4主日 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
山上の変容場面では、イエスとの同行の旅において改めて、イエスに聴くよう招かれ、実のならない無花果の話しでも聴いて行うよう呼びかけられた。今日の有名な「放蕩息子」の譬えでも、「聴く」ことの重要性が繰り返されている。聖書の信仰は神の言葉を「聴いて」「応える」ことだ。そして、神からの呼び掛けは「神を愛し隣人を愛する。」ことであった。兄は確かに父の言葉どおり働き、仕えた、宗教的に言えば、礼拝を厳しく守った。が、隣人への関わりを忘れていた。更に、兄の隣人とは兄同様のいわゆる「いい人」に限られていた。父の隣人とは弟のように社会的には落後者とレッテルを貼られる人であったのだ。それゆえにこそ、イエスは十字架刑に処せられたのであった。 神の呼び掛けを改めて「聴き」応えよう。 |
2010年3月21日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書8章1節-11節
神の人への願いは、共生すること、連帯することだ。先週の話しでは、父は息子の弟とも兄とも「共に」居ようとされたのだった。今日の話しでは、自己の正当性を主張し、利益を得ようとするため、人を陥れ、裁き、分断し、命と人権さえ奪おうとする人間の悪しき性が描かれている。 イエスはそれらに対し、人のあるべき姿を思い起こさせる。人が生きるのは、誰もが生かされ、ゆるされているからだ。非のない人間はいない。だからこそ、人の過ちとの連帯、つまり、理解し受け入れ合うことがだいじではないか。そして、再び、過ちを犯さないよう人生を支え合おうことへ、イエスは私たちを気付かせている。 日本では裁判員制度が始まり、誰もが人を裁く立場になることとなった。キリスト者として、このイエスのことばに聴き臨むようにしよう。 |
2010年3月28日(日) 枝の主日 ルカによる福音書19章28節-40節
イエスは遂にエルサレムへ入って行った。エルサレム、政治・経済・宗教的権威の中枢の象徴である。ガリラヤ出身のイエスから見れば、自分たちの貧困、病気、差別をもたらす元凶であった。イエス以前のガリラヤのユダは過酷な課税に反対し立ち上がり、武力で鎮圧されていた。 そのエルサレムにイエスは武力ではなく神の言葉を持って入って来た。それは、弱くさせられた人々との連帯への呼び掛けであった。放蕩息子の譬えや、「罪ある女」との物語が語るように。 私たちの前にもエルサレムの門が聳え立っている。力ある者、富のある者がますます栄えていく世界が。その前では、職を失った若者、障がいのある人々、貧しい高齢者たちが困難を負わされ、喘ぎ苦しんでいる。イエスは私たち信仰者がこれらの人々と一緒に、その困難がなくなるために、門を潜って、その世界を変えて行くように呼びかけている。 |
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