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2010年2月7日(日) 年間第5主日 ルカによる福音書5章1節-11節
イエスの神の国宣教は壮大だ。奴隷が解放され、病人が癒されると言う「恵みの年」を告げようとするからだ。ガリラヤは穀倉地帯だったが故に、搾取され、奴隷、流民とされ、貧しいために病気なった人々が大多数と言われた。イエスの宣教はその当時の経済・社会・宗教体制に抗うものとなった。 その宣教に従う弟子を誘ったのが今回の箇所だ。従って、キリスト教の信仰とは、このイエスの呼び掛けに応えて、ついて行くことであって、決して、来世の天国へ行くことではない。虐げられ、差別され、貧しくさせられた人々の生命を回復させる旅なのだ。「網を下せ」と言う不可能なことへの挑戦なのだ。 イエスにこの困難な旅を決意させたのは、神であり、苦しむ人々の声であっただろう。 私たちも聞いている。だから、イエスといっしょに旅立とう。 |
2010年2月14日(日) 年間第6主日 ルカによる福音書6章17節20節-26節
イエスの神の国宣教は続く。癒しとゆるし、解放を告げる旅は。神は世界の惨状を見られたなら、何と言うでしょうか。ハイチ、パレスティナやアフリカの子供たち、災害・戦争・暴力・貧困・病気で生きざるを得ない子供たち。神は怒っているだろう、富める者たちを。なぜ、これらの人々を見捨てているのか、何もしないのか。私がどれほどお前たちを大事にしているのにもかかわらず、恩を忘れたのか、と。 イエスの「災いだ」は衣食住にあふれるほどの恵みをいただいている私たちの回心への叫びだ。 |
2010年2月21日(日) 四旬節第1主日 ルカによる福音書4章1節-13節
今日の荒れ野での悪魔によるイエスの試みは、イエスの宣教が何であり、イエスが「神の子」であるとは何であるかを教えています。 悪魔の試みは、言いかえれば、私たち人間の欲望を適えてくれとの神への勝手な要求と言えるのではないか。ところが、イエスはそれに応えるのdれはなく、神の言葉、即ち、小さくされた人々を大切にする生き方を身をもって示された。 「神の子」とは神へ帰依された生を全うされたという意味なのだ。私たちも「洗礼」、即ち、神の子となる生き方を選らんだことを再度思い越そう。 |
2010年2月28日(日) 四旬節第2主日 ルカによる福音書9章28b節-36節
イエスとの旅は、小さくされた人々が尊重され、生きられるようにする神の愛を伝えることだ。従って、古今東西の歴史が明かすように、苦難、十字架の道となる。 私たちはそのイエスについて行こうと決心し、洗礼を受けた。単に死後天国へ行きたいからではない。多種ある人生の一つを選らんだのだ。それは、出エジプトの荒野の旅であり、荒野の悪魔の誘惑との闘いなのだ。しかし、一人ではないインマヌエル、「同行二人」、イエスが、そして、仲間が共にいてくださる旅だ。「これに聞け」とはこの意となる。 「聴く」、即ち、祈りのうちに泣く人、飢えた人がいない世界へ変えて行きましょう。 |
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