ももちゃんの一分間説教



今週の一句
コンビニの 棚埋め尽くす 恵方巻き

―もとゐ―


 2010年2月7日(日)
 年間第5主日

 ルカによる福音書5章1節-11節

5,1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5,2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5,3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5,4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5,5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5,6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5,7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5,8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5,9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5,10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5,11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 イエスの神の国宣教は壮大だ。奴隷が解放され、病人が癒されると言う「恵みの年」を告げようとするからだ。ガリラヤは穀倉地帯だったが故に、搾取され、奴隷、流民とされ、貧しいために病気なった人々が大多数と言われた。イエスの宣教はその当時の経済・社会・宗教体制に抗うものとなった。

 その宣教に従う弟子を誘ったのが今回の箇所だ。従って、キリスト教の信仰とは、このイエスの呼び掛けに応えて、ついて行くことであって、決して、来世の天国へ行くことではない。虐げられ、差別され、貧しくさせられた人々の生命を回復させる旅なのだ。「網を下せ」と言う不可能なことへの挑戦なのだ。

 イエスにこの困難な旅を決意させたのは、神であり、苦しむ人々の声であっただろう。

 私たちも聞いている。だから、イエスといっしょに旅立とう。
今週の一句
蝋梅や 季節先駆け 色は黄

―もとゐ―


 2010年2月14日(日)
 年間第6主日

 ルカによる福音書6章17節20節-26節

6,17 〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、〔来ていた。〕
6,20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6,21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6,22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6,23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6,24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6,25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6,26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 イエスの神の国宣教は続く。癒しとゆるし、解放を告げる旅は。神は世界の惨状を見られたなら、何と言うでしょうか。ハイチ、パレスティナやアフリカの子供たち、災害・戦争・暴力・貧困・病気で生きざるを得ない子供たち。神は怒っているだろう、富める者たちを。なぜ、これらの人々を見捨てているのか、何もしないのか。私がどれほどお前たちを大事にしているのにもかかわらず、恩を忘れたのか、と。

 イエスの「災いだ」は衣食住にあふれるほどの恵みをいただいている私たちの回心への叫びだ。
今週の一句
早春の 畑埋められ 色は黄

―もとゐ―


 2010年2月21日(日)
 四旬節第1主日

 ルカによる福音書4章1節-13節

4,1 〔そのとき、〕イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4,2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4,3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4,4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4,5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4,6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4,7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4,8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4,9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4,10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4,11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4,12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4,13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 今日の荒れ野での悪魔によるイエスの試みは、イエスの宣教が何であり、イエスが「神の子」であるとは何であるかを教えています。

 悪魔の試みは、言いかえれば、私たち人間の欲望を適えてくれとの神への勝手な要求と言えるのではないか。ところが、イエスはそれに応えるのdれはなく、神の言葉、即ち、小さくされた人々を大切にする生き方を身をもって示された。

 「神の子」とは神へ帰依された生を全うされたという意味なのだ。私たちも「洗礼」、即ち、神の子となる生き方を選らんだことを再度思い越そう。 
今週の一句
春一番 炊き出しに吹く 笑い顔

―もとゐ―


 2010年2月28日(日)
 四旬節第2主日

 ルカによる福音書9章28b節-36節

9,28b 〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9,29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
9,30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9,31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
9,32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
9,33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
9,34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
9,35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
9,36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 イエスとの旅は、小さくされた人々が尊重され、生きられるようにする神の愛を伝えることだ。従って、古今東西の歴史が明かすように、苦難、十字架の道となる。

 私たちはそのイエスについて行こうと決心し、洗礼を受けた。単に死後天国へ行きたいからではない。多種ある人生の一つを選らんだのだ。それは、出エジプトの荒野の旅であり、荒野の悪魔の誘惑との闘いなのだ。しかし、一人ではないインマヌエル、「同行二人」、イエスが、そして、仲間が共にいてくださる旅だ。「これに聞け」とはこの意となる。

 「聴く」、即ち、祈りのうちに泣く人、飢えた人がいない世界へ変えて行きましょう。  


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