|
2010年1月1日(日) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
羊飼いたちは天使が告げられたことを確かめに行き、そのとおりだったので、神を賛美しなから帰った、と今日の福音。 私たちの信仰の道程を言っている。イエスが救い主であることを聞いた私たちは確かめに行かねばならない。どこへ、イエスの宣教旅行へ、人々の中へ特に、小さくさせられた人々と一緒に歩むことを。教会や神学書の中では確かめられない。 行く着く先は十字架かもしれない。しかし、そこまで行かねばイエスのことはわからない。十字架の手前では、小市民的満足は得られるかもしれないが、神を賛美することはできないだろう。 世界や人類は未曾有の危機にあると言われている。その難局に立ち向かう時にこの新年をしたい、でなければ、一層危機は加速度するだろう。イエスは向かわれた、神が共にいられるとの確信から、私たちも向かおう、子らへの未来のために。 |
2010年1月3日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
キリストの誕生物語は、私たちが「救い主」を誰とするかの選択を迫ると言われる。今日のMagiの話しもそうである。ヘロデか、星、即ち、神に従うか。この世的利益を望ならヘロデ王でしょう。しかし、欲望にはきりがない、次から次と誘惑が襲う。手に入れるには非人間的なことさえする。そこには、安心立命はない。Magiにはそれ相応の報償が与えられことでしょう。しかし、それは一過性のもので、次にもっと欲しくなる。その時には悪魔となるかもしれない。イエスを売り渡すとか。 他方、神への信従。それは富、栄華にも縁のない、むしろ、不人気、嘲笑の受難の道となる。しかし、そこには他者と共に生きる自由、喜び、明かりがある。イエスの喜びは小さくさせられた人々の顔に喜びが戻り、人生を前向きに生きることではなかったでしょうか。 自分の弱さを補って余りある神のみ力によって他者と共に生きよう。 |
2010年1月10日(日) ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節
イエスが宣教を始めたのは30歳頃と言われている。それまで、何をしていたのかはわからない。しかし、転機がきた。洗礼者ヨハネの叫び「神の裁きが近い」だった。 イエスはそれを聴き、ヨハネの下へ来て、洗礼を受けた。福音はその受洗をイエスが「神の子」との宣言を受けた出来ごとと語る。私たちもそれぞれの理由で洗礼を受ける。けれど、それは私たちが「神の子」となること、即ち、私の人生から他者と共にある人生に変わったことを意味するのだ。もう一度、洗礼の意義に帰ろう。 |
2010年1月17日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書2章1節-11節
ヨハネ福音書ではイエスの宣教活動の冒頭に、カナの婚宴での出来事が書かれている。イエスの働きが祝宴に譬えられている、と言うののでしょう。 律法主義的な裁きではなく、喜びと感謝こそが神の国なのです。しかし、人間のご都合的な祝宴ではありません。神が人を招く宴なのです。まさに、十字架を通しての喜びがあるのです。その神の招きに応えましょう。 |
2010年1月24日(日) ルカによる福音書4章14〜21節
イエスは派遣された、霊において。それは、神において、つまり、イエスは人生を神の望まれる生き方においたということだ。30歳までのイエスは自分の思いのままに生きたかもしれない。しかし、苦悩する人々との出会いや洗礼者ヨハネとの出会い、また、内なる声の呼び掛けに方向転換をしたのだろう。 |
2010年1月31日(日) 年間第4主日 ルカによる福音書4章21節-30節
イエスは神に帰依して生きようとされた。つまり、自分の都合で神に従うのではなく、神の思いに従うことを。その一つが神が無償で人々を大切にされる方であることを信じ、広めようとされた。しかし、ある人々は神を利用していた。神はいわゆる正しい人にだけ報いてくださるから、祭儀も律法も厳格に守る正しいユダヤ教徒である自分たちを神は救ってくれると信じていた。当然、イエスの宣教には反発し、拒否した。いわば、ナザレの人たちは神の思いにではなくく、人の思いに従う神をしんじていたのだ。 けれど、神はそうではない。神は貧しい者、弱くさせられた人々と共にいるのだ。だからこそ、私と共にいてくださるのだ。イエスとの旅は、神の思いを知る旅でもある。さあ、尋ね歩こう。 |
|