ももちゃんの一分間説教



今週の一句
寮を後に 故郷向かう 大晦日

―もとゐ―


 2010年1月1日(日)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 羊飼いたちは天使が告げられたことを確かめに行き、そのとおりだったので、神を賛美しなから帰った、と今日の福音。

 私たちの信仰の道程を言っている。イエスが救い主であることを聞いた私たちは確かめに行かねばならない。どこへ、イエスの宣教旅行へ、人々の中へ特に、小さくさせられた人々と一緒に歩むことを。教会や神学書の中では確かめられない。

 行く着く先は十字架かもしれない。しかし、そこまで行かねばイエスのことはわからない。十字架の手前では、小市民的満足は得られるかもしれないが、神を賛美することはできないだろう。

 世界や人類は未曾有の危機にあると言われている。その難局に立ち向かう時にこの新年をしたい、でなければ、一層危機は加速度するだろう。イエスは向かわれた、神が共にいられるとの確信から、私たちも向かおう、子らへの未来のために。 
今週の一句
大晦日 老婆の渡りを 待つ交差点

―もとゐ―


 2010年1月3日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 キリストの誕生物語は、私たちが「救い主」を誰とするかの選択を迫ると言われる。今日のMagiの話しもそうである。ヘロデか、星、即ち、神に従うか。この世的利益を望ならヘロデ王でしょう。しかし、欲望にはきりがない、次から次と誘惑が襲う。手に入れるには非人間的なことさえする。そこには、安心立命はない。Magiにはそれ相応の報償が与えられことでしょう。しかし、それは一過性のもので、次にもっと欲しくなる。その時には悪魔となるかもしれない。イエスを売り渡すとか。

 他方、神への信従。それは富、栄華にも縁のない、むしろ、不人気、嘲笑の受難の道となる。しかし、そこには他者と共に生きる自由、喜び、明かりがある。イエスの喜びは小さくさせられた人々の顔に喜びが戻り、人生を前向きに生きることではなかったでしょうか。

 自分の弱さを補って余りある神のみ力によって他者と共に生きよう。
今週の一句
七草や 粥を覘けば 遠からじ

―もとゐ―


 2010年1月10日(
 主の洗礼

 ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節


3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3,22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 イエスが宣教を始めたのは30歳頃と言われている。それまで、何をしていたのかはわからない。しかし、転機がきた。洗礼者ヨハネの叫び「神の裁きが近い」だった。

 イエスはそれを聴き、ヨハネの下へ来て、洗礼を受けた。福音はその受洗をイエスが「神の子」との宣言を受けた出来ごとと語る。私たちもそれぞれの理由で洗礼を受ける。けれど、それは私たちが「神の子」となること、即ち、私の人生から他者と共にある人生に変わったことを意味するのだ。もう一度、洗礼の意義に帰ろう。
今週の一句
もち幾つ 鏡開きの ぜんざいかな

―もとゐ―


 2010年1月17日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書2章1節-11節

2,1 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2,2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2,3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2,4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2,5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2,6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2,7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2,8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2,9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2,10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2,11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ヨハネ福音書ではイエスの宣教活動の冒頭に、カナの婚宴での出来事が書かれている。イエスの働きが祝宴に譬えられている、と言うののでしょう。

 律法主義的な裁きではなく、喜びと感謝こそが神の国なのです。しかし、人間のご都合的な祝宴ではありません。神が人を招く宴なのです。まさに、十字架を通しての喜びがあるのです。その神の招きに応えましょう。
今週の一句
大寒の空 幼子託し 昇る母

―もとゐ―


 2010年1月24日(
 年間第三主日

 ルカによる福音書4章14〜21節


4,14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4,15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4,16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4,17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4,18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4,19 主の恵みの年を告げるためである。」
4,20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4,21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 イエスは派遣された、霊において。それは、神において、つまり、イエスは人生を神の望まれる生き方においたということだ。30歳までのイエスは自分の思いのままに生きたかもしれない。しかし、苦悩する人々との出会いや洗礼者ヨハネとの出会い、また、内なる声の呼び掛けに方向転換をしたのだろう。

 神の望まれることとは、自分一人が満足することではなく、すべての人が不当に扱われることなく、人生を感謝と喜びのうちに生きることだ。

 私たちの周りには小さくさせられて生きている人々が一杯いる。私たちはイエスとの出会いによって、そのことに気づかされた。神は私たちを派遣される、イエスの後をついて行くように。 

今週の一句
悪戦苦闘 笹根起こせば 蕗の薹

―もとゐ―


 2010年1月31日(日)
 年間第4主日

 ルカによる福音書4章21節-30節

4,21 〔そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた。〕イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4,22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4,23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4,24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4,25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4,26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4,27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4,28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4,29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4,30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスは神に帰依して生きようとされた。つまり、自分の都合で神に従うのではなく、神の思いに従うことを。その一つが神が無償で人々を大切にされる方であることを信じ、広めようとされた。しかし、ある人々は神を利用していた。神はいわゆる正しい人にだけ報いてくださるから、祭儀も律法も厳格に守る正しいユダヤ教徒である自分たちを神は救ってくれると信じていた。当然、イエスの宣教には反発し、拒否した。いわば、ナザレの人たちは神の思いにではなくく、人の思いに従う神をしんじていたのだ。

 けれど、神はそうではない。神は貧しい者、弱くさせられた人々と共にいるのだ。だからこそ、私と共にいてくださるのだ。イエスとの旅は、神の思いを知る旅でもある。さあ、尋ね歩こう。 


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