|
2009年12月6日(日) 待降節第2主日 ルカによる福音書3章1節-6節
洗礼者ヨハネの叫びは神の審判に備えて回心せよであった。言いかえれば、「今」何をしなければならないかだ。しかし、安定した生活を営む私たちは「明日」を思い煩う、今は「明日」のための備えでしかない。というのは、頼れるのは自分しかいないから。皇帝テイベリウス、ユダヤ総督ピラト、大祭司カイアファらもそうだ。自分を守るのは自分しかない。 他方、無一物の荒れ野のヨハネには神だけが頼りであった。イエスもそうだ。「明日」は神が備えてくれるから、神の言葉は後者にしか降りない。物に頼る生き方から神と共に生きる方へ回心しよう。 「今」を生きるために。 |
2009年12月13日(日) 待降節第3主日 ルカによる福音書3章10節-18節
キリスト教では洗礼者ヨハネをイエスに先駆ける者、イエスをキリストとして紹介する者と位置づけている。今日のルカ福音書には洗礼者ヨハネが福音を宣べたとも書かれている。イエスも福音を伝えたが、この両者が語った福音とは何か。それは神との契約を思い起こし、立ち返ること。すなわち、神の国、理想郷を目指し神の言葉を便りに進んで行くこと。皇帝や王、大祭司らのように自己の栄華を求め他者を虐げる生き方から、弱気者、貧しい人、苦しむ人に自分の持てる物を与え、分かち合う生き方への転換、そして、そこにおいてこそ、神の祝福、幸い、生命があるということではないか。 わたしたちもこの世の競争主義、弱肉強食に生き方に疲れ、破れてイエスとであったのではないか。 もう一度、イエスの福音にもどり小さくされた人々と共に生きよう。 |
2009年12月20日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章39節-45節
エリザベトとマリアの出会いは、キリスト者の在り方を教える。キリスト者は神の国の宣教者としての使命を与えられる。神の国の宣教者はこの世と衝突する。その価値観、利益より生命の優先、偉くなることより仕えることを選ぶ、等などはこの世の忌み嫌うものであるから。洗礼者ヨハネ、イエスの生涯はそれを明らかにした。従って、その宣教者には連帯者、協同者がいなければならない。つまり、共に、宣教者として呼ばれた者の集まり、教会がそれを果たす。 教会はその使命を全うするため、果敢に荒れ野に飛び出して行けるものなのだ。 「神がいてくれる」から。 |
2009年12月24日(日) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
ルカによるイエス誕生の物語は歴史的報告ではなく、イエスがどういう救い主であるかを示す。しかし、読む者には想像力を喚起させる美しいファンタジーの世界だ。クリスマスソングも一層イメージを膨らませる。天と地と人が一体化している。そこに栄光があり平和がある。 人間は天から離れ、地を汚してしまった。そこに利己主義、地球温暖化、戦争、貧困、飢餓が生まれたのだ。洗礼者ヨハネは天に帰れ、つまり、神の前で生きよと叫んだ。イエスは神の前で、そして、神によって、即ち、大地からの恵みに感謝して人との間で生きよ、と招かれた。為政者たちは耳を貸さず、あくなき利己主義に魂を奪われた。ヨハネ、イエスの声を聴いたには力ある者たちから自由を奪われ虐げられたヨゼフ、マリア、羊飼いらであった。ローマ皇帝をはじめとする為政者に従うのではなく、天地人に謙虚に生きることこそ幸いであることを、天使たちの歌声が響かせているのではないだろうか。 |
2009年12月27日(日) 聖家族 ルカによる福音書2章41節-52節
イエスは宣教にあたって、律法学者、ファリサイ派の人たちと多くの論争をし、人々はその解釈に驚いたと、福音書には報告されている。その萌芽が今日の福音書に見られる。ユダヤ教ではその律法解釈について今なお論争されているそうです。 さて、子どもを育てる親の心労は計り知れないでしょう。今日のイエスのように親の心配をよそに勝手な行動を取るようになると。それは、多分、神と人の関係でも同じことが言えるかもしれません。神がどれほどの思いを人へかけても、人は勝手にどんどん神から離れて行くのではないか。よい方向ならいざ知らず、悪への方ならその心痛はいかばかりでしょうか。 マリアはすべて心に納め、思いめぐらしたとあるが、それはどれほど嘆きながら見守り続けている神の姿を現しているのではないでしょうか。 |
|