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2009年11月1日(日) 諸聖人 マタイによる福音書5章1節-12節
イエスへの信従の道は神の国を実現することだ。神の国とは「救い」と言ってもいい。救い(ヘブライ語のシャローム)は契約が守られる、ことを言う。つまり、神の人間への呼びかけの応えること、例えば、先週の、盲人バルテイマイの正当に扱ってくれという切実な叫びに応え、共同体の交わりに迎えることだ。 神は私たち豊かで、笑い、飽食している者に呼びかける。貧しい人、泣く人、飢えた人が当たり前の生活が送られるようにしようと。 |
2006年11月8日(日) 年間第32主日 マルコによる福音書12章38節-44節
律法学者やファリサイ派の人々は、神殿でイエスになんだかんだと論争を挑んだ。最大の掟は何だとか。税金を納めるかどうか、等々。しかし、その論争は相手を負かそうと言う悪企みのもの。 イエスはこれらの律法学者たちにそんなことにかまけているのではなく、あのやもめを見習ったどうだ、と呼びかけている。律法は他者を負かすためのものではない、どう生きるかが大事なんだよ。お前たちは神の思いよりも人の思いに従っているのではないか。 一から出直ししなくちゃ。 |
2009年11月15日(日) 年間第33主日 マルコによる福音書13章24節-32節
現代においては、自然災害、等は悪魔のしわざではなく、人間の所為であることがわかる。従って、終末が来て、神の裁きがあるとは思わない。むしろ、人間の責任を問われる。旧約聖書も預言者たちはイスラエルの滅亡を神との契約違反と見なし、支配者たちを告発している。 イエスも同じ視点に立っていた。神の国の到来を待ち望むより、神の国の実現を呼び掛けている。「あなたがたの間に神の国があるのだ」貧しいやもめのあの献金をよびかけている。地球温暖化ストップのために立ち上がろう! |
2009年11月22日(日) 王であるキリスト ヨハネによる福音書18章33節b-37節
イエスの宣教の旅は終りに近づいた。最後は、総督ピラトの前であった。 イエスは自分の使命を「真理を証する」こととピラトに言った。 出世欲に囚われたピラトの真理はどうしたら一段上の位に行けるかがであった。そのためには、競争相手を殺してでもよかった。しかし、それはいつかはピラトの身にも降りてくることであった。この世では欲に生きるとき欲に殺されることとなる。 イエスにとって生きることは相互に生かし合うことであった。つまり、他者のために生きることは自分を生かすこととなるのであった。イエスの十字架の死がそうであった。それによって私たちは生かされたのだ。 イエスの証したこの「真理に生きるよう」招かれている。 |
2009年11月29日(日) 待降節第1主日 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節
教会の暦は今日から新年。始めにあたり、のっけから終末への注意を呼び掛けている。これは一体何だ。生きるということは不確実だ。一寸先は闇、だから、「今」を大事にしよう。神からの呼び掛けに応えよう、というのではないか。人生は「荒野の旅、出エジプトの旅」だから。聖書の民が歩いた跡を辿って行こう。 |
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