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2009年10月4日(日) 年間第27主日 マルコによる福音書10章2節-16節
イエスは「遊女」「徴税人」「病人」と常に交わられた。彼・彼女たちはその職業、病気故に共同体から閉め出され、神の罰を受けている人として差別され、虐げられていた。今日で言えば、犯罪者、ホームレス、落ちこぼれと呼ばれる人々と共にいたのがイエスであった。当然、社会の良識ある人たちからは評価されない、むしろ反感を買う姿であった。 離婚された女性にも、イエスは同じように関わられた。社会的にも経済的にも劣悪な状況に立たされる彼女たちを応援された。人として当然与えられる尊厳を奪う、社会の価値観、慣習へイエスは憤るのだ。 イエスの苦難の道はそこから始まる。人の上に立つのではなく、悲しむ人、苦しむ人と共にあろうとする、限りない、優しさから。私たちもそのイエスの優しさに立ち上がることができた。だから、イエスについて行こう。 |
2009年10月11日(日) 年間第28主日 マルコによる福音書10章17節-30節
イエス信従の道、それは弱い立場の人々と共にいる、こととイエスは言われる。 さて、私は長い間、ホームレスの人々の「自立支援」に関わっているが、そのために自分のものは何一つ捨てたことがない。仕事としてやれる立場にいるから、時間や労力を割いてするわけでもない。自慢できるものは全くない。むしろ、させていただいているのだ。お陰様なのだ。言換えれば、こんな私が人とのつながりの中で生かされている、ゆるされている、と言うこと。 だから、私はつながっている者として、他者を生かす人になりたい。自分がいただいたあらゆるものはそのつながりのためにあるのではないだろうか。 |
2009年10月18日(日) 年間第29主日 マルコによる福音書10章35節-45節
私たちの人生は、欲しいものだらけの人生だ。お金、地位、名誉、権力、妻や子ども、天国、等々。そして、それらにはそれぞれランクがある。出来れば、一番上等なものが欲しい。でなければ、二番目か三番目、しかし、どべ、ホームレスだけにはなりたくない。だから、自分の得た物は一銭でも失いたくない。強欲で貪欲な人生となっている。 そんな私たちにイエスは呼びかける。あなたの持ち物は全部いただいたのではないか。たまたま、運が良かっただけだよ。得られる境遇にいただけだよ。お陰で、反対に得られなくて困難な人生を送っている人たちがいるよ。彼・彼女たちにあなたたちはどう関わるのですか。強盗に襲われ半死半生の人をどうするのですか。 イエスは私たちが自発的に動くのを待っておられる。 |
2009年10月26日(日) 年間第30主日 マルコによる福音書10章46節-52節
イエスへの信従は「子ども」を受け入れる道。誰しも自分を認めてもらいたい、受け入れて欲しいと願っている。反面、他者を受け入れないのが私たち。その際、理由付ける、「目の見えない人は神から罰せられたから邪魔者にしてもいいのだ」。「ホームレスは自業自得なのだから無視してもいい」等々。 イエスは弟子たちさえからも正当に扱われなかったバルティマイを認めた「あなたの信仰があなたを救った」と。バルテイマイの必死の叫びは正当に俺と関わってくれとの叫びだった。それにイエスは真摯に応えられた。実は私たちこそイエスが命を掛けて受け入れてもらった。私たちはうれしかった、今もうれしい。だからこそ、なおそら、不当に扱われている人々の願いに応えられるのではないか。 |
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