ももちゃんの一分間説教



今週の一句
帰り道 服に染み込む 秋の雨

―もとゐ―


 2009年10月4日(日)
 年間第27主日

 マルコによる福音書10章2節-16節

10,2 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10,3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10,4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10,5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10,6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10,7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10,8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10,9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10,10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10,11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10,12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
10,13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10,14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10,15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10,16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 イエスは「遊女」「徴税人」「病人」と常に交わられた。彼・彼女たちはその職業、病気故に共同体から閉め出され、神の罰を受けている人として差別され、虐げられていた。今日で言えば、犯罪者、ホームレス、落ちこぼれと呼ばれる人々と共にいたのがイエスであった。当然、社会の良識ある人たちからは評価されない、むしろ反感を買う姿であった。

 離婚された女性にも、イエスは同じように関わられた。社会的にも経済的にも劣悪な状況に立たされる彼女たちを応援された。人として当然与えられる尊厳を奪う、社会の価値観、慣習へイエスは憤るのだ。

 イエスの苦難の道はそこから始まる。人の上に立つのではなく、悲しむ人、苦しむ人と共にあろうとする、限りない、優しさから。私たちもそのイエスの優しさに立ち上がることができた。だから、イエスについて行こう。  
今週の一句
台風の 唸り聞きつつ 眠り入り

―もとゐ―


 2009年10月11日(日)
 年間第28主日

 マルコによる福音書10章17節-30節

10,17 〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10,18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10,19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10,20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10,21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10,22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10,23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10.24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10.25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10.26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10,27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10,28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10,29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10,30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 イエス信従の道、それは弱い立場の人々と共にいる、こととイエスは言われる。

 さて、私は長い間、ホームレスの人々の「自立支援」に関わっているが、そのために自分のものは何一つ捨てたことがない。仕事としてやれる立場にいるから、時間や労力を割いてするわけでもない。自慢できるものは全くない。むしろ、させていただいているのだ。お陰様なのだ。言換えれば、こんな私が人とのつながりの中で生かされている、ゆるされている、と言うこと。

 だから、私はつながっている者として、他者を生かす人になりたい。自分がいただいたあらゆるものはそのつながりのためにあるのではないだろうか。 
今週の一句
おはようの ドアを開ければ 金木犀

―もとゐ―


 2009年10月18日(日)
 年間第29主日

 マルコによる福音書10章35節-45節

10,35 〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10,36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10,37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10,38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10,39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10,40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10,41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10,42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10,43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10,44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10,45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 私たちの人生は、欲しいものだらけの人生だ。お金、地位、名誉、権力、妻や子ども、天国、等々。そして、それらにはそれぞれランクがある。出来れば、一番上等なものが欲しい。でなければ、二番目か三番目、しかし、どべ、ホームレスだけにはなりたくない。だから、自分の得た物は一銭でも失いたくない。強欲で貪欲な人生となっている。

 そんな私たちにイエスは呼びかける。あなたの持ち物は全部いただいたのではないか。たまたま、運が良かっただけだよ。得られる境遇にいただけだよ。お陰で、反対に得られなくて困難な人生を送っている人たちがいるよ。彼・彼女たちにあなたたちはどう関わるのですか。強盗に襲われ半死半生の人をどうするのですか。

 イエスは私たちが自発的に動くのを待っておられる。
今週の一句
花散りて なほ地彩り 金木犀

―もとゐ―


 2009年10月26日(日)
 年間第30主日

 マルコによる福音書10章46節-52節

10,46 イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10,47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10,48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10,49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10,50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10,51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10,52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 イエスへの信従は「子ども」を受け入れる道。誰しも自分を認めてもらいたい、受け入れて欲しいと願っている。反面、他者を受け入れないのが私たち。その際、理由付ける、「目の見えない人は神から罰せられたから邪魔者にしてもいいのだ」。「ホームレスは自業自得なのだから無視してもいい」等々。

 イエスは弟子たちさえからも正当に扱われなかったバルティマイを認めた「あなたの信仰があなたを救った」と。バルテイマイの必死の叫びは正当に俺と関わってくれとの叫びだった。それにイエスは真摯に応えられた。実は私たちこそイエスが命を掛けて受け入れてもらった。私たちはうれしかった、今もうれしい。だからこそ、なおそら、不当に扱われている人々の願いに応えられるのではないか。 


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