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2009年9月6日(日) 年間第23主日 マルコによる福音書7章31節-37節
イエスは耳と口の不自由な人を癒された。その人にとって癒された耳と口はどれほど有り難いことだろう。一杯聴いて、一杯心のうちを伝えたいことだろう。かれの人生は夢に向かって始まった。 他方、不自由でない私たちは耳と口を閉じているかもしれない。聴きたいこと、言いたいことを封じて、夢を閉ざしているかもしれない。イエスの豊かな人生への招きを聴かず、相変わらず、保身の人生を歩んでいるのではないか。 手を洗うことより、耳と口の掃除が先でではないか。 |
2009年9月13日(日) 年間第24主日 マルコによる福音書8章27節-35節
イエスを知らない人に私たちはどのようにイエスを紹介することができるでしょうか。 既に信者になった人に紹介するのはもっと困難である。というのは、既に、イエス像を持っていて、しかも、それが絶対だと教え込まれているから、聴く耳をもたない。むしろ、教えられたのとは違う、と言って非難するだけとなるから。 やはり、身を持って証しすることではないだろうか。知識としては言えるかもしれないが、人が自分の生き様を見たら空虚なことばとなってしまう。 ペテロも同じだ。伝統的世俗的メシア像は持っていたから。他のメシア像を受け入れる余地はなかった、イエスの受難予告を聴くことはできなかったのだ。 イエスの十字架の道のりをついて行って初めて見えるのではないか。だから、経過報告を伝えよう。今のわたしにとってのイエスは誰かと。 |
2009年9月20日(日) 年間第25主日 マルコによる福音書9章30節-37節
信仰でも一番になりたい。みんなから、よく祈りますね。ミサも欠かさず来ていますね。立派、、すごい、まねできない、偉いと誉められたいと誰もが思っているのではないでしょうか。しかし、表には出せない、すぐ傲慢、生意気と揶揄されかねない。あるいは、恨まれ、妬まれる。そんな私たちに、イエスは奴隷になりなさい、子どものように権利、立場のない人、即ち、ホームレス、犯罪者、等を擁護する人になれと呼びかける。今なら、酒井法子さんのそばに居なさい、と言うことだろう。そんなことをしたら、誰もほめてくれない、むしろ、非難囂々だ。イエスご自身、最後は十字架刑死という極悪人になったのであった。 信仰とはこのイエスについて行くことなのだ。 |
2009年9月27日(日) 年間第26主日 マルコによる福音書9章38節-43節、45節、47節-48節
イエスに従う道は一番偉い者になることではない。むしろ、最後、どべになれとイエスは言う。というのは、イエスの目指す神の国は「生かされ、ゆるされる」ところを言うのだ。一番になるとは、絶対者となって他者を支配し、裁く者になることだ。私たちは人の上に立ちたがる。夫は妻を、親は子を、社長は部下を、部下はその下の部下を、といじめの連鎖ができあがる。そんなところでは生きるのが困難だ。強い者が生き残る。 どべになれ、とは力ある者、能力ある者がそれに奢らず、感謝して弱い立場の人のために奉仕することではないだろうか。 |
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