ももちゃんの一分間説教



今週の一句
梅雨明けぬ 空へと蔓を 延ばしおり

―もとゐ―


 2009年8月2日(日)
 年間第18主日

 ヨハネによる福音書6章24節-35節

6,24 〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6,25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6,26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6,27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6,28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6,29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6,30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6,31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6,32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6,33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
6,34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6,35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 人々はイエスに期待する。パンを与えられることを。、困窮にある人々の願いに答えようとすることは、恵まれた生活をする人たちの努めである。しかし、お腹だけを満たすのは、その場限りでしかない。飢えは延々と続く。その日の糧を求めることは必要だが、それ以上に、飢えることのない世界を造ることこそが肝要ではないか。

 『主の祈り』はそれを告げる。まず、み国が来ますように、み心が行われますように、と。

 今日の糧と、神の国の実現へとイエスは私たちの期待を向かわせる。   
今週の一句
梅雨明けを 体は既に 告げられし

―もとゐ―


 2009年8月9日(日)
 年間第19主日

 ヨハネによる福音書6章41節-51節

6,41 〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6,42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6,43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6,44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6,46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6,47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6,48 わたしは命のパンである。
6,49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6,50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6,51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 人生という旅を進むとき何を頼りとしているだろうか。かっては三高と言われた、高学歴、高収入、高い身長のこと。今は三低らしい、低姿勢、低リスク、低依存と言う。つまり、安定が第一と言うことであろう。何が起きるか分からない今、人々の求めるものなのであろう。

 イエスの人生はどうであったか。イエスは神に応えることを第一とした。神の呼びかけは、心を騒がせる。と言うのは理想を求めさせるからだ。愛のないところに愛を、無関心を関心へと。安定を不安定に。しかし、命を与え、永遠の命に至らせる。イエスはそう生きた。このイエスについて行くこう。   
今週の一句
朝顔や 朝毎新た 色模様

―もとゐ―


 2009年8月16日(日)
 年間第20主日

 ヨハネによる福音書6章51節-58節

6,51 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6,52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6,53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6,54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6,56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6,57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6,58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 芸能人酒井某の覚醒剤問題がかまびすしい。総選挙の話題も霞む程だ。何をして覚醒剤に手を出したのだろう。人生という旅を進むに当たって、他の何かを頼りにすれば良かったのではと思う。幸い、私たちはイエス・キリストに出会うことができた。イエスは私たちの人生を豊かにするため、命さえ惜しまなかった。自己の保身ばかり考える私たちの目を覚まさせる。他者の役に立ったらなあと思わせてくださる。立ち上がって、イエスについて行きたい。  
今週の一句
真昼にも うつろい聞きし 虫の声

―もとゐ―


 2009年8月23日(日)
 年間第21主日

 ヨハネによる福音書6章60節-69節

6,60 〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
6,61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
6,62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
6,63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
6,64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
6,65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
6,66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
6,67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
6,68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
6,69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 このパンの講話と言われるところの主題は、イエスこそ人生を「永遠の命」(私は質と考える)へ導く指針であり、源である、と言うこと。イエスは言う、私のことばは霊であり、命を生かす、と。人を生かす、命に息を吹き込むのがイエスなのだ。私はイエスから何度も何度も息を吹き込まれ、その度に生かされた、この喜びを伝える人生を与えられたと感謝している。

 イエスは戸を叩いている。開けてみませんか。   
今週の一句
鈴虫や 逝く人送る 御車の音

―もとゐ―


 2009年8月30日(日)
 年間第22主日

 マルコによる福音書7章1節-8節、14節-15節、21節-23節

7,1 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7,2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7,3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7,4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7,5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7,6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7,7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7,8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7,14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7,15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7,21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7,22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7,23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 主日の福音書はマルコに戻ってきた。それまでのマルコのテーマは「信仰」とは何かであった。つまり、神に委ねて自らの力を引き出すこと、と言えよう。イエス、マリア、弟子たちの姿がそれを示している。今日も、同じ点から見よう。

 人々は外的な行為、たとえば、洗いによって「汚れ」を清め、神の救いの対象となることを、「信仰」と考えて、熱心に守っていた。しかし、「信仰」とは外的汚れを洗い清めることが目的ではない、心的汚れを清めることこそが目的である。

 いくら外的(=人間的努力)行為、たとえば、祭儀行為を熱心に守っても、心的、即ち、他者との関わり、貧しい者への配慮が欠けていれば、神は喜ばれないのである。ユダヤ教の神は人々がそう生きるように奴隷から解放された、と言うのが信仰の原点であった。神の恵みがまずあり、それに応えることが「信仰」なのだ。

 神が私たちの心を他者へと引き出してくれる。


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