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2009年8月2日(日) 年間第18主日 ヨハネによる福音書6章24節-35節
人々はイエスに期待する。パンを与えられることを。、困窮にある人々の願いに答えようとすることは、恵まれた生活をする人たちの努めである。しかし、お腹だけを満たすのは、その場限りでしかない。飢えは延々と続く。その日の糧を求めることは必要だが、それ以上に、飢えることのない世界を造ることこそが肝要ではないか。 『主の祈り』はそれを告げる。まず、み国が来ますように、み心が行われますように、と。 今日の糧と、神の国の実現へとイエスは私たちの期待を向かわせる。 |
2009年8月9日(日) 年間第19主日 ヨハネによる福音書6章41節-51節
人生という旅を進むとき何を頼りとしているだろうか。かっては三高と言われた、高学歴、高収入、高い身長のこと。今は三低らしい、低姿勢、低リスク、低依存と言う。つまり、安定が第一と言うことであろう。何が起きるか分からない今、人々の求めるものなのであろう。 イエスの人生はどうであったか。イエスは神に応えることを第一とした。神の呼びかけは、心を騒がせる。と言うのは理想を求めさせるからだ。愛のないところに愛を、無関心を関心へと。安定を不安定に。しかし、命を与え、永遠の命に至らせる。イエスはそう生きた。このイエスについて行くこう。 |
2009年8月16日(日) 年間第20主日 ヨハネによる福音書6章51節-58節
芸能人酒井某の覚醒剤問題がかまびすしい。総選挙の話題も霞む程だ。何をして覚醒剤に手を出したのだろう。人生という旅を進むに当たって、他の何かを頼りにすれば良かったのではと思う。幸い、私たちはイエス・キリストに出会うことができた。イエスは私たちの人生を豊かにするため、命さえ惜しまなかった。自己の保身ばかり考える私たちの目を覚まさせる。他者の役に立ったらなあと思わせてくださる。立ち上がって、イエスについて行きたい。 |
2009年8月23日(日) 年間第21主日 ヨハネによる福音書6章60節-69節
このパンの講話と言われるところの主題は、イエスこそ人生を「永遠の命」(私は質と考える)へ導く指針であり、源である、と言うこと。イエスは言う、私のことばは霊であり、命を生かす、と。人を生かす、命に息を吹き込むのがイエスなのだ。私はイエスから何度も何度も息を吹き込まれ、その度に生かされた、この喜びを伝える人生を与えられたと感謝している。 イエスは戸を叩いている。開けてみませんか。 |
2009年8月30日(日) 年間第22主日 マルコによる福音書7章1節-8節、14節-15節、21節-23節
主日の福音書はマルコに戻ってきた。それまでのマルコのテーマは「信仰」とは何かであった。つまり、神に委ねて自らの力を引き出すこと、と言えよう。イエス、マリア、弟子たちの姿がそれを示している。今日も、同じ点から見よう。 人々は外的な行為、たとえば、洗いによって「汚れ」を清め、神の救いの対象となることを、「信仰」と考えて、熱心に守っていた。しかし、「信仰」とは外的汚れを洗い清めることが目的ではない、心的汚れを清めることこそが目的である。 いくら外的(=人間的努力)行為、たとえば、祭儀行為を熱心に守っても、心的、即ち、他者との関わり、貧しい者への配慮が欠けていれば、神は喜ばれないのである。ユダヤ教の神は人々がそう生きるように奴隷から解放された、と言うのが信仰の原点であった。神の恵みがまずあり、それに応えることが「信仰」なのだ。 神が私たちの心を他者へと引き出してくれる。 |
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