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2009年7月5日(日) 年間第14主日 マルコによる福音書6章1節-6節
嵐での弟子たち、長血を患った女性、また、故郷の人々、イエスへの期待はそれぞれであり、取った行動も違った。 故郷の人々の期待、それは、十字架刑に処せられたイエスを見たユダヤの人々の反応でもあったろう。彼らは政治的メシアとしてイエスを期待したが、刑死したイエスには失望しか生まれなかった。 しかし、そのイエスこそが神から遣わされた方、人間としての新しい生き方を告知した方と見出し、その生を倣い、引き継ごうとした人々が現れたのであった。 私たちは、今、その証言を受け、イエスを主とし、その道を歩み始めた。反応は様々であるが、私たちはイエスが真の主であることを証し続けよう。 |
2009年7月12日(日) 年間第15主日 マルコによる福音書6章7節-13節
イエスは弟子たちを宣教に遣わすにあたり、何も持たずと告げる。イエスは神へのまったき信頼に生きた。湖上での嵐にあっても、病気に苦しむ女性がやって来たときも、そして、十字架への道にあっても。 私たちは行動の際、自己の能力以上のことには手を出さない。ところが、イエスは自分の力をもっと引き出す神を信頼している。 弟子たち、そして、私たちにその神への信頼を呼びかけている。 |
2009年7月19日(日) 年間第16主日 マルコによる福音書6章30節-34節
宣教旅行の報告に帰ってくる弟子たち。何も持たない、神のみに頼る働きは驚きの連続であったかもしれない。何となれば、神は弟子たちの力を無限に引き出す方だから。何かに頼るとき、例えば、自分の才能、財力、権力に頼るならば限界がある。しかし、何もないからこそ、当たって砕けられるのだ。マリアは神の言葉にすべてを委ねた。イエスも父なる神に委ねたのだった。 弟子たち、私たちを待っているのは、神の働きを切望する困難にある人々だ。一息してその人々の中へ出掛けて行こう。 |
2009年7月26日(日) 年間第17主日 ヨハネによる福音書6章1節-15節
ヨハネにおけるイエスは人へイニシアテイヴ的に関わろうとする神を表わしている。有名な「神はその独り子をお与えたになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福3・16)は典型であろう。今日のパンの供食も、イエスが主導権を握っている。それは、押しつけがましいというよりも神の人を何とか誤った生き方から方向転換させたいと言う意志を表わし、人はそれに応えるよう求められているのだ。 神のその想いに気づき、神の望む生き方、公正な世界を築いて行きたい。 |
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