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2009年6月7日(日) 三位一体の主日 マタイによる福音書28章16節-20節
イエスとの出会いは、私たちを立ち上がらせる。 世界の混迷、人々の不安、生きづらさを抱えている人々にイエスのおられることを伝えるようにと。イエスと出会った私たちは、生きる意味、喜び、希望を与えられた。もちろん、十字架を背負うことも、しかし、十字架を負うのは私ではない、イエスであり、神であり、聖霊である方、そして、同労者の人たちの励ましである。 さあ、みんながついている、出掛けよう!! |
2009年6月14日(日) キリストの聖体 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節
教会で祝うミサの意味をあらためてマルコ福音書から見てみよう。まず、ユダヤ教の過越祭、小羊を屠る日という場面設定。イエスの十字架刑死がまさにそれと同様に、人々を救う、解放の出来事、そのための犠牲死と意味づけ、ユダヤ教徒が祝うように、それを想起し、世々に伝えて行くことを祝う食事としたのだ。 それ故、私たちはイエスの生前の働きが私たちを解放し、救う働きであることを思い起こし、感謝し、それに応答すること、即ち、イエスのように小さくさせられた人々に関わって行くこと、行きましょう!!がミサを祝う、ことなのだ。 |
2009年6月21日(日) 年間第12主日 マルコによる福音書4章35節-41節
地球温暖化で災害は増えている、が人類は無力だ。大型ハリケーン、巨大津波、大地震、無数の人命が奪われている。嵐を鎮めたイエスはどこにいるのか。災害ばかりじゃない、人生には嵐がつきものだ。渦中に巻き込まれた時、イエスは助けに来るのか。私たちの知っているイエスは無力だ。しかし、その無力なイエスと人生を歩もう、その限り、未来が開けて来る、と言うのがイエスからの呼びかけではないのか。 |
2009年6月28日(日) 年間第13主日 マルコによる福音書5章21節-43節
病気故に、人としての交わりを拒否されるこの女性、人との関わりにおいて生の喜びが与えられるはずなのに、ゆるされないこの女性。そのために、あらゆる手だてを取ったけれど、何も効果なく、ますます、状況は悪化するだけ。それでも、諦められない彼女はイエスに賭けた、たとえ、咎めを受けたとしても。船のなかでただ叫ぶ弟子たちと違い。 彼女の必死の行動にイエスの力は引き出された。イエスは彼女を認めた、「娘よ」と。「汚れた者」として排除しか受けなかった彼女は、初めて、認められ誉められたのであった。苦難や困難が続く現在、それを乗り越えるには座して待つのではなく、一歩踏出すことをこの女性は私たちに教えている。 |
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