ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨待たず 色深めけり 七変化

―もとゐ―


 2009年6月7日(日)
 三位一体の主日

 マタイによる福音書28章16節-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28.20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 イエスとの出会いは、私たちを立ち上がらせる。

 世界の混迷、人々の不安、生きづらさを抱えている人々にイエスのおられることを伝えるようにと。イエスと出会った私たちは、生きる意味、喜び、希望を与えられた。もちろん、十字架を背負うことも、しかし、十字架を負うのは私ではない、イエスであり、神であり、聖霊である方、そして、同労者の人たちの励ましである。

 さあ、みんながついている、出掛けよう!! 
今週の一句
万葉の 時空を運び 鳴く蛙

―もとゐ―


 2009年6月14日(日)
 キリストの聖体

 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節

14,12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14,13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14,14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14,15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14,16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14,22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14,23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14,24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14,25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14,26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 教会で祝うミサの意味をあらためてマルコ福音書から見てみよう。まず、ユダヤ教の過越祭、小羊を屠る日という場面設定。イエスの十字架刑死がまさにそれと同様に、人々を救う、解放の出来事、そのための犠牲死と意味づけ、ユダヤ教徒が祝うように、それを想起し、世々に伝えて行くことを祝う食事としたのだ。

 それ故、私たちはイエスの生前の働きが私たちを解放し、救う働きであることを思い起こし、感謝し、それに応答すること、即ち、イエスのように小さくさせられた人々に関わって行くこと、行きましょう!!がミサを祝う、ことなのだ。
今週の一句
朝一番 一葉めくれば 熟トマト

―もとゐ―


 2009年6月21日(日)
 年間第12主日

 マルコによる福音書4章35節-41節

4,35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4,36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4,37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4,38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4,39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4,40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4,41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 地球温暖化で災害は増えている、が人類は無力だ。大型ハリケーン、巨大津波、大地震、無数の人命が奪われている。嵐を鎮めたイエスはどこにいるのか。災害ばかりじゃない、人生には嵐がつきものだ。渦中に巻き込まれた時、イエスは助けに来るのか。私たちの知っているイエスは無力だ。しかし、その無力なイエスと人生を歩もう、その限り、未来が開けて来る、と言うのがイエスからの呼びかけではないのか。  
今週の一句
信号待ち 微笑み会釈 アガパンサス

―もとゐ―


 2009年6月28日(日)
 年間第13主日

 マルコによる福音書5章21節-43節

5,21 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5,22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5,23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5,24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5,25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5,26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5,27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5,28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5,29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5,30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5,31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5,32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5,33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5,34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5,35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5,36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5,37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5,38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5,39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5,40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5,41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5,42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5,43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 病気故に、人としての交わりを拒否されるこの女性、人との関わりにおいて生の喜びが与えられるはずなのに、ゆるされないこの女性。そのために、あらゆる手だてを取ったけれど、何も効果なく、ますます、状況は悪化するだけ。それでも、諦められない彼女はイエスに賭けた、たとえ、咎めを受けたとしても。船のなかでただ叫ぶ弟子たちと違い。

 彼女の必死の行動にイエスの力は引き出された。イエスは彼女を認めた、「娘よ」と。「汚れた者」として排除しか受けなかった彼女は、初めて、認められ誉められたのであった。苦難や困難が続く現在、それを乗り越えるには座して待つのではなく、一歩踏出すことをこの女性は私たちに教えている。


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