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2009年5月3日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章11-18節
前の日曜日には新しい名古屋市長が決まった。投票率は50パーセントになった。それは良かったが、何を基準に選んだかが心配だ。選挙前に、ある親しい人にこれまで選挙に行ったことがありますか、と尋ねたところ、一度もないという返事、びっくりして何故ですかと聞きました。すると、興味がないとの答え。これまた唖然でした。興味がなくても、誰が市長になるかによって自分の暮らしや安全に影響のあることにまで思い至らないその人を気の毒に感じました。去年秋以来の、100年に一回の経済危機と言われていますが、国の支配者たちにはこんな事は筋書き通りではないでしょうか。経団連は早くからグローバリ経済に生き残るためのコスト削減、特に、派遣をはじめ非正規雇用労働者化を進めていました。 不況になればすぐに雇用調整ができるように。それを民営化、規制緩和を推進する政府と一体となって。今日の状態になって一番痛められたのは弱い立場の人々だけであって、政・財界は何の痛みもないことは企業の内部留保金で明らかとなっています。 誰を指導者とするかによって、生活も生命も破壊されてしまうのです。 幸いかな、私たちはイエス・キリストと出会いました。イエスはこの世の指導者とは違い、奪うのではなく与えられるのです。憎しむのではなく愛するのです。拒否や強制ではなく、理解し忍耐されるのです。最後には生命をも捨てられたのです。 私たちはこのイエスを人生の指導者として選びました。このイエスのように生きることが幸いであると信じています。 |
2009年5月10日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書15章1-8節
新インフルエンザの流行。経済不況とのダブルパンチ。人間の営みの脆弱さを明らかにする。人間の生活が確固たるものになるには何に土台を据え、何処へ向かったらいいのだろう。 イエスは私に留まりなさい(つながっていなさい)と呼びかける。そして、その中味とは、イエスの愛に留まり、イエスとの約束、即ち、愛し合うことを行え、と言う。愛し合うとは、公平と平等の社会になるよう働きかけることと、旧約の預言者たちは告げている。 現代は格差が拡がり不公平、不平等の社会となった。その中では、人間はただの 歯車となって、役に立たなければ捨てられるだけだ。 友のために自身の生命を捨てたイエスに留まり、イエスの愛によって弱い立場の人とを生きる者になろう。 |
2009年5月17日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書15章9-17節
人には良い支えと導き手が必要だ、でなければ自己破滅する。例えば、オカルト宗教にはまる人は、もともと人生を模索していた人だ。しかし、運悪く、言葉巧みに誘われ、気がつけば集金マシーンになっていた。結局、オカルト宗教は他者を犠牲にした自己増殖が目的なのだ。 イエスは自分の利益のために宣教したのではない。ただ、目の前の弱い立場におかれている人々が幸いになって欲しいという一念で関わり続け、その結果、十字架に付けられたのであった。 そのイエスに惹かれた人々が、イエスをぶどうの木と呼び、人生の同伴者とした。私たちはその証言に出会ったため、同じく、イエスを人生の土台と指針にしたのだ。 このイエスに留まって、イエスのように生きて行きたい。 |
2009年5月24日(日) 主の昇天 マルコによる福音書16章15-20節
キリストが昇天した、と言うのは、キリストが神の右に座し、すべてを支配する「主」となったとの意味である。しかし、これは単純なことではない。あの十字架刑に処せられたイエスをそうであると宣言するのだから。前回も述べたように、この世では自己栄華を最たる価値とするに対し、自己放棄に徹したイエスを「主」、即ち、人が従うべき者とするのは理解されない。 弟子たちはあのイエスの生前のあり様を目の当たりにし、神の人への思いが何であるのか、ローマ帝国にではなく、ファリサイ派はじめユダヤ教各セクトにではなく、イエスの小さくさせられた人々と共に在る、そこにこそあるのだと確信したのではないか。 新型インフルエンザ、温暖化、戦争等の世界の問題解決にもイエスの在り様に倣うのが今日、主の昇天を祝うことではないか。 |
2009年5月31日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節
イエスは新しい生き方を示された。それは、アッバ、と呼ぶ大いなるものに生かされてある、と言うこと。人は一人では生きて行けない。大いなるものに抱えられて、例えれば、ぶどうの木に留まりながら、実をつけられる、つまり、他者と生かし合って行けることを教えられた。 私たちは今、このイエスが示された新しい道、真理を受け入れて歩き出すことが、聖霊を受けるということではないか。 |
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