ももちゃんの一分間説教



今週の一句
青空は つづじの色を 更に染め

―もとゐ―


 2009年5月3日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章11-18節

10,11 〔そのとき、イエスは言われた。〕わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10,12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10,13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10,14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10,15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10,16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10,17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10,18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 前の日曜日には新しい名古屋市長が決まった。投票率は50パーセントになった。それは良かったが、何を基準に選んだかが心配だ。選挙前に、ある親しい人にこれまで選挙に行ったことがありますか、と尋ねたところ、一度もないという返事、びっくりして何故ですかと聞きました。すると、興味がないとの答え。これまた唖然でした。興味がなくても、誰が市長になるかによって自分の暮らしや安全に影響のあることにまで思い至らないその人を気の毒に感じました。去年秋以来の、100年に一回の経済危機と言われていますが、国の支配者たちにはこんな事は筋書き通りではないでしょうか。経団連は早くからグローバリ経済に生き残るためのコスト削減、特に、派遣をはじめ非正規雇用労働者化を進めていました。 

 不況になればすぐに雇用調整ができるように。それを民営化、規制緩和を推進する政府と一体となって。今日の状態になって一番痛められたのは弱い立場の人々だけであって、政・財界は何の痛みもないことは企業の内部留保金で明らかとなっています。

 誰を指導者とするかによって、生活も生命も破壊されてしまうのです。

 幸いかな、私たちはイエス・キリストと出会いました。イエスはこの世の指導者とは違い、奪うのではなく与えられるのです。憎しむのではなく愛するのです。拒否や強制ではなく、理解し忍耐されるのです。最後には生命をも捨てられたのです。

 私たちはこのイエスを人生の指導者として選びました。このイエスのように生きることが幸いであると信じています。 
今週の一句
長雨も 色に敵はじ 矢車草

―もとゐ―


 2009年5月10日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1-8節

15,1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15,2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15,3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15,4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15,5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15,6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15,7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15,8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 新インフルエンザの流行。経済不況とのダブルパンチ。人間の営みの脆弱さを明らかにする。人間の生活が確固たるものになるには何に土台を据え、何処へ向かったらいいのだろう。

 イエスは私に留まりなさい(つながっていなさい)と呼びかける。そして、その中味とは、イエスの愛に留まり、イエスとの約束、即ち、愛し合うことを行え、と言う。愛し合うとは、公平と平等の社会になるよう働きかけることと、旧約の預言者たちは告げている。
現代は格差が拡がり不公平、不平等の社会となった。その中では、人間はただの
歯車となって、役に立たなければ捨てられるだけだ。

 友のために自身の生命を捨てたイエスに留まり、イエスの愛によって弱い立場の人とを生きる者になろう。
今週の一句
若葉出て 膨らむ期待 虫が食う

 2009年5月17日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9-17節

15,9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15,10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15,11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15,12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15,13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15,14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15,15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15,16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15,17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 人には良い支えと導き手が必要だ、でなければ自己破滅する。例えば、オカルト宗教にはまる人は、もともと人生を模索していた人だ。しかし、運悪く、言葉巧みに誘われ、気がつけば集金マシーンになっていた。結局、オカルト宗教は他者を犠牲にした自己増殖が目的なのだ。

 イエスは自分の利益のために宣教したのではない。ただ、目の前の弱い立場におかれている人々が幸いになって欲しいという一念で関わり続け、その結果、十字架に付けられたのであった。  

 そのイエスに惹かれた人々が、イエスをぶどうの木と呼び、人生の同伴者とした。私たちはその証言に出会ったため、同じく、イエスを人生の土台と指針にしたのだ。

 このイエスに留まって、イエスのように生きて行きたい。
今週の一句
隣の田 一夜過ぎたら 水鏡

―もとゐ―


 2009年5月24日(日)
 主の昇天

 マルコによる福音書16章15-20節

16,15 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16,16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16,17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16,18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16,19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16,20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 キリストが昇天した、と言うのは、キリストが神の右に座し、すべてを支配する「主」となったとの意味である。しかし、これは単純なことではない。あの十字架刑に処せられたイエスをそうであると宣言するのだから。前回も述べたように、この世では自己栄華を最たる価値とするに対し、自己放棄に徹したイエスを「主」、即ち、人が従うべき者とするのは理解されない。

 弟子たちはあのイエスの生前のあり様を目の当たりにし、神の人への思いが何であるのか、ローマ帝国にではなく、ファリサイ派はじめユダヤ教各セクトにではなく、イエスの小さくさせられた人々と共に在る、そこにこそあるのだと確信したのではないか。

 新型インフルエンザ、温暖化、戦争等の世界の問題解決にもイエスの在り様に倣うのが今日、主の昇天を祝うことではないか。
今週の一句
水鏡 線引き終えたら 緑の田

―もとゐ―


 2009年5月31日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節

15,26 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15,27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16,12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 イエスは新しい生き方を示された。それは、アッバ、と呼ぶ大いなるものに生かされてある、と言うこと。人は一人では生きて行けない。大いなるものに抱えられて、例えれば、ぶどうの木に留まりながら、実をつけられる、つまり、他者と生かし合って行けることを教えられた。

 私たちは今、このイエスが示された新しい道、真理を受け入れて歩き出すことが、聖霊を受けるということではないか。


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