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2009年3月1日(日) 四旬節第1主日 マルコによる福音書1章12節-15節
「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」神の国とは理想社会。 例えば、悪霊憑き、ライ病者、中風者たちが安心して生きられる社会のことを言う。イエスの招きは理想社会の建設に私たちを呼ばれる。イエスは私たちに呼びかける。「どこにいるのか」「何をしているのか」この声に、従おう。 イエスのように、病者たちの声に耳を傾け、交流して行こう。 |
2009年3月8日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
イエスとの旅、それは「神の国」すなわち、理想郷を実現する旅だ。旧約の歴史ではモーセが目ざし、エリヤも遣わされた。イエスもまた歩み始め、弟子たちは従った。夢を見るのは素晴らしいことだが、その実現は永久に来ないかもしれない。だから、周囲からは馬鹿にされ、相手にされない。そして、人は倦み挫折する。手っ取り早い成果を求める。ましてや、その途上では苦難が待ち受けている となれば。弟子たちはもう止めましょう、記念碑を建てましょうと。人々が詣で、この世的成功を得られるからと。イエスの旅は終わらない。人々の苦しみを残して自分さえよければにはなれなかった。モーセもエリアも墓さえなく記念碑もない人生を選ばれた。それが「私の愛する子」なのだ。 |
2009年3月15日(日) 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書2章13節-25節
イエスの当時、ユダヤでは神殿が、人々の生活すべてを支配していた。つまり、神殿は聖と俗、善と悪、罪と裁き、価値あるものと無価値を規定し、人を分断していた。現代では、資本主義であろう。即ち、利益を生み出すことが最高の価値とされる。 イエスの批判は、神殿や現代社会が要求する生き方ではなく、神の望む生き方、慈しみと正義と、恵みの業を行う事(エレミア9・23)、言換えれば、弱い立場の人たちと共にある生き方を取ろうとの呼びかけなのだ。 |
2009年3月22日(日) 四旬節第4主日 ヨハネによる福音書3章14節-21節
私たちの存在価値はどこにあるのか。イエス時代の神殿支配体制では神殿の要求に答えることにあった。どれだけ高価な犠牲獣を献げるか、律法をどれほど厳格に守っているか、厳密に祭儀を行っているか、等にあった。従って、地位ある者、富ある者は優れた人として讃えられる一方、貧しい者、病気の人々はその要求に答えられず、「罪人」「無資格者」との烙印を押され、社会から排除されたのであった。 現代のグローバル経済体制ではどれだけの利潤を上げるかが価値とされる。労働者は便利な道具でしかない。役に立たなければ捨てられるのだ。他方、力ある者、富める者のみが価値あるとされる。 イエスはその神殿体制を批判した。そして、それに代わる、神の愛を人々に示した。神は「世」を愛した。世にあるすべての人を無条件に愛している、とイエスはその十字架刑死で示された。私たちの価値はそこにある。神が愛している、そのことに。 わたしたちは神の愛に答え、すべての人が大切にされる社会を築こう。 |
2009年3月29日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書12章20節-33節
ヨハネはイエスの十字架刑死を「栄光」と呼び、また、一粒の麦の死と例えている。 麦は死んでいれば実らないごとく、イエスの死の意味はその一点にあるのではない、イエスの生、即ち、病人や貧しい人々が祝福されたものとなるよう身を捨ててまでの働きかけがあったからこそ、人々を引きつけてやまない。もし、イエスの死を「贖罪死」とだけ意味づけるなら、イエス以外の死でもよくなる。むしろ、私たちはイエスの生き様に惚れて、自分もそうありたいと望むから、イエスについて行くのではないだろうか。 |
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