|
2009年2月1日(日) 年間第4主日 マルコによる福音書1章21節-28節
イエスが漁師たちを招いた神の国とは一体何か。 それは、「安息日」の意味が実現するところだ。 「安息日」は人間性の回復する時と場である。奴隷として働き続けさせられる状態に休息を置き、奴隷ではなく神に似たものとして、愛され大切にされる者であることを確認する時なのだ。「安息日」は休息、何もしない、と言うことは、働き、有用、効率、成果と言う資本主義経済的価値からの評価を受ける時ではない。むしろ、働きはゼロ、即ち、人があるがまま、存在自体を受入れられる時なのだ。 悪霊に取り憑かれた人とは、まさに、資本主義的価値観にがんじがらめに縛られて生きることが困難になっている人のことだ。会堂、教会もそれらに縛られて、人をそのようにしか見ない。イエスがしたことは人を縛るものからの解放だ。 悪霊に取り憑かれた人と会堂に「安息日」を実現されたのだ。 |
2009年2月8日(日) 年間第5主日 マルコによる福音書1章29節-39節
イエスの行く先々を病む人、悪霊に取り憑かれた人々が取り囲んでいた。それ程、それらの人々は「救い」を待ち望んでいた。というのは、当時のユダヤ教では神から拒否されていた人々であった。彼・彼女らには生きるのに一縷の希望さえなかった。病人を「癒した」というイエスの評判はたちまち広まったのだ。 今日もなお、生きるのに絶望状況の人は数知れない。教会はどう応えられるのか。大海の一滴かもしれないが、出会った人々には少なからず応えて行きたい。イエスを待っている人、即ち、教会を待っている人がいる限り。 |
2009年2月15日(日) 年間第6主日 マルコによる福音書1章40節-45節
イエスの行く先々は喜びで一杯。 病人たちはイエスとの関わりで幸いを見出す。ライ病者も奈落の底からイエスとの出会いによって這い上がることができた。ライ病者はただ救いを待っていたのではない。禁を破り、人前に出て行った。それは命を賭けた行動であった。イエスはユダヤ教の規定である祭司の権限を犯し、彼に触れ、清いと宣言した。それは、同じく命を賭けた行いであった。だから、人々は感歎したのだ。「権威ある新しい教え」だと。 幸いは安価ではない。しかし、目の前にある。 |
2009年2月22日(日) 年間第7主日 マルコによる福音書2章1節-12節
イエスは病む者の仲間を褒め称える。ライ病者と違って中風病者は動けない。心身二重の苦しみから解放されたいと願いつつも、自らは何もできない。仲間はその心中を察し、何とかしたいと、彼をイエスのところまで、どんなに苦労しても、連れて行った。そして、イエスは彼らに心を動かされ、無論、中風病者にも心を痛み、出来るだけのことをした。すなわち、病者の一番の願い、神の罰を受けた者ではなく、神から愛さている者であると認めることを。イエスは罪をゆるした、つまり、あなたは神から大切にされている者だ、との宣言をした。たとえ、硬直な律法学者たちの非難を受けても。 教会も、仲間の熱意を歓迎し、社会から受け入れられない人と、どんな非難があろうとも、共にいよう。 |
|