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2009年1月1日(木) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
解雇され住むところを追い出された人々、イスラエルに空爆され殺傷された人たちのそばにいる者は誰か。十字架上のイエスではないか。「救い主」と言っても、全能者として何でも解決してくれる者ではない。聖書の言うそれは飼い葉桶に寝かされている乳児であり、十字架にぶら下げられたイエスでしかない。そのイエスは羊飼いたちにとって一番身近な者なのではなかったか。 ということは、この無力な私たちも羊飼いらの隣人になれるのだ。 年の初めにあたって、新たに隣人になれるよう旅立とう。 |
2009年1月4日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
私たちは人生の指針、羅針盤をどこに求めたら良いのだろう。 金融危機に象徴されるような資本主義経済では格差が拡がり、虫けらのように労働者は投げ捨てられる。それは聖書の言う「マモン」、バアル信仰だ。 イエスは「マモン」にではなく、一羽の雀を大切にする神を人生の指針とした。 それは、競争ではなく、共生である。 占星術の学者たちも、ヘロデ、この世の王ではなく、星、即ち、この世を越える方、神に従った。 公現は私たちを導く方は誰かを示される。 |
2009年1月11日(日) 主の洗礼 マルコよる福音書1章7節-11節
停滞している時、外からの誘いがきっかけで立ち上がることがある。イエスに呼びかけた天からの声は、イエスを「神の子」として歩ませるものであった。その場合、イエスは何者でもなかった。ただの求道者として洗礼者ヨハネのもとに来た人々の一人に過ぎなかった。神は無名のイエスに声をかけられた。「心に適う者」、ギリシャ語の直訳では「わたしはおまえを喜んだ」と言う。(岩波版註) 神はわたしたち一人一人を喜んでいてくださるのだ。その呼びかけに立ち上がろう。 |
2009年1月18日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章35節-42節
イエスは「神の子」と言われるが、それはどうしてか。カトリック教義をいくら説明されてもわからない。イエスの歩いた道を、実際、辿ることによって見えてくるかもしれない。また、多くの先達がその後に従い、イエスを見出している。 その証言をも頼りにして歩むことができる。イエスは言う。「来て見なさい。」 混乱の続く世界、平和になるようイエスの道を進んで行きたい。 |
2009年1月25日(日) 年間第3主日 マルコによる福音書1章14節-20節
イエスの宣教は「神の国」の到来だ。言換えれば、「幸いが来た、そこへ飛び込もう」との招きだ。漁師たちは「置いて、従った」と言う。「置く」これがポイントだ。これまでの経験を含め、蓄えたもの、頼りになるものをひとまずご破算にすること、無一物になって始めることが大事。なぜなら、イエスの新しさ、深さ、広さを、既成の知識、経験が受入れられないからだ。 まず、置こう、捨てよう。それが「回心」なのだ。 |
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