ももちゃんの一分間説教



今週の一句
餅つきの 蒸し上がるのを 待つ日和

―もとゐ―


 2009年1月1日(木)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 解雇され住むところを追い出された人々、イスラエルに空爆され殺傷された人たちのそばにいる者は誰か。十字架上のイエスではないか。「救い主」と言っても、全能者として何でも解決してくれる者ではない。聖書の言うそれは飼い葉桶に寝かされている乳児であり、十字架にぶら下げられたイエスでしかない。そのイエスは羊飼いたちにとって一番身近な者なのではなかったか。

 ということは、この無力な私たちも羊飼いらの隣人になれるのだ。

 年の初めにあたって、新たに隣人になれるよう旅立とう。
今週の一句
南天の 赤と白の実 青い空

―もとゐ―


 2009年1月4日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 私たちは人生の指針、羅針盤をどこに求めたら良いのだろう。

 金融危機に象徴されるような資本主義経済では格差が拡がり、虫けらのように労働者は投げ捨てられる。それは聖書の言う「マモン」、バアル信仰だ。

 イエスは「マモン」にではなく、一羽の雀を大切にする神を人生の指針とした。
それは、競争ではなく、共生である。

 占星術の学者たちも、ヘロデ、この世の王ではなく、星、即ち、この世を越える方、神に従った。

 公現は私たちを導く方は誰かを示される。
今週の一句
午後のホーム 陽射し眩しき 寒の入

―もとゐ―


 2009年1月11日(日)
 主の洗礼

 マルコよる福音書1章7節-11節

1,7 〔そのとき、洗礼者ヨハネは〕こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1,8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1,9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1,10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1,11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 停滞している時、外からの誘いがきっかけで立ち上がることがある。イエスに呼びかけた天からの声は、イエスを「神の子」として歩ませるものであった。その場合、イエスは何者でもなかった。ただの求道者として洗礼者ヨハネのもとに来た人々の一人に過ぎなかった。神は無名のイエスに声をかけられた。「心に適う者」、ギリシャ語の直訳では「わたしはおまえを喜んだ」と言う。(岩波版註)

 神はわたしたち一人一人を喜んでいてくださるのだ。その呼びかけに立ち上がろう。 
今週の一句
皹は 長湯につかり 憩わせる

―もとゐ―


 2009年1月18日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章35節-42節

1,35 〔そのとき、〕また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1,36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1,37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1,38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1,39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1,40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1,41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1,42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 イエスは「神の子」と言われるが、それはどうしてか。カトリック教義をいくら説明されてもわからない。イエスの歩いた道を、実際、辿ることによって見えてくるかもしれない。また、多くの先達がその後に従い、イエスを見出している。

 その証言をも頼りにして歩むことができる。イエスは言う。「来て見なさい。」

 混乱の続く世界、平和になるようイエスの道を進んで行きたい。
今週の一句
大寒は 雨雲通り 窓曇り

―もとゐ―


 2009年1月25日(日)
 年間第3主日

 マルコによる福音書1章14節-20節

1,14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1,15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1,16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1,17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1,18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1,19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1,20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 イエスの宣教は「神の国」の到来だ。言換えれば、「幸いが来た、そこへ飛び込もう」との招きだ。漁師たちは「置いて、従った」と言う。「置く」これがポイントだ。これまでの経験を含め、蓄えたもの、頼りになるものをひとまずご破算にすること、無一物になって始めることが大事。なぜなら、イエスの新しさ、深さ、広さを、既成の知識、経験が受入れられないからだ。

 まず、置こう、捨てよう。それが「回心」なのだ。 


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