ももちゃんの一分間説教



今週の一句
日傾き ホットケーキに混ぜ ぬかご食う

―もとゐ―


 2008年11月2日(日)
 死者の日

 ヨハネによる福音書6章37-40節

6,37 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6,38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6,39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6,40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 イエスとの出会いは、私たちが生かされている、のだということに気づかせてくれた。イエスは出会った人、なかでも、生きるのに重荷を負っている人に手を貸そうとした。病気の人には癒しを、飢えた人にはパンを、孤独な人には寄り添いを、不当な扱いを受けている人には正義を。イエスと出会った人々は、生きることに勇気と夢と愛を持てた。人は他者と共に在るとき、己も生かされることをイエスは教えた。

 死者のことを思うと、今の自分はその上に在ることと思う。

 感謝して、私たちはその生かし合う輪のなかに連なろう。 
今週の一句
灰色の 空にひときわ 石蕗花

―もとゐ―


 2008年11月9日(日)
 ラテラン教会の献堂

 ヨハネによる福音書2章13-22節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 宗教は人を裁き、分断する。聖なるものと汚れたもの、救われるものとそうでないもの、と。ユダヤ教の神殿もその制度であった。聖の頂点である大祭司は神に近いものであり、汚れた貧しい者や病人、外国人は神の罰を受け救われない者として扱われた。更に、神殿は人々を経済的に搾取し続ける制度でもあった。現代のキリスト教とて例外ではない。

 イエスは人を奴隷とする神殿体制を批判したのであった。

 イエスを救い主として信じることは、キリスト教会がすべての人々に開かれ仕えるものとなることを意味しているのだ。  
今週の一句
もみじ葉の まだらに染まる 通い道

―もとゐ―


 2008年11月16日(日)
 年間第33主日

 マタイによる福音書25章14-30節

25,14 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25,15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25,16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25,17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25,18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25,19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25,20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25,21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25,23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25,24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25,25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25,26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25,27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25,28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25,29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25,30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 イエスが生きたユダヤ教での信仰とは、神と契約を結び、それに忠実に生きることに他ならない。所謂、信条を信じることではない。即ち、神のことばを行い、従うとき、人は命と幸いを得るが、そうでないとき、人は死と災いを受ける。(申命記)

 それでは、神のことばとは何か。今日のタレントはまさに神のことば、呼びかけのことだ。

 私たちは、イエスと出会い、彼から新しい命を得た。それは、イエスに従って生きることを選んだのだ。イエスは呼びかける、「隣り人を愛せよ。」このイエスの呼びかけに忠実であるだろうか。聞いただけで何もしない、つまり、地中に隠しているのではないか。

 私たちを隣り人として待っている人がたくさんいる。戦争、貧困、病気、孤独の中にある人々だ。関われば、傷つくかもしれない。しかし、一人ではない。イエスがいて、仲間がいる。その支えのなかで、隣り人になって行くことが、イエスから預けられたことなのだ。  
今週の一句
踏まれても 黄金輝く 落葉かな

―もとゐ―


 2008年11月23日(日)
 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31-46節

25,31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25,32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25,33 羊を右に、山羊を左に置く。
25,34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25,35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25,36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25,37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25,38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25,39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25,40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25,41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25,42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25,43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25,44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25,45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25,46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 十字架刑死に極まったイエスは永遠の命の祝福を与えられただろうか。然り、と信じるのがキリスト教だ。しかし、イエス自身はそのために生きたのだろうか。無論、ユダヤ教指導者たちの反感を買ったことから、結果は予想し、覚悟しただろう。

 けれど、方向転換もできただろうが、それをしなかった。何故か、イエスにとって小さくさせられた人々への想い、関わりをしているだけだった。体制批判を初めから目指したわけではない。成り行きだったのだ。つまり、十字架刑死はただ小さくさせられた人々への想い、関わりの結果、無意識の果てだった。初めから、祝福されるためではない。

 自分のためではない、人への想いを神は見られたのだ。
今週の一句
くちなしは 赤い実のみの 秋深し

―もとゐ―


 2008年11月30日(日)
 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33-37節

13,33 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13,34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13,35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13,36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13,37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 イエスの福音は、救いを待ち望むのではなく、既に、あるので、身を投じなさい、との招きだ。世界は変わらなければ、と誰もが思うだろう。それに対し、イエスはあなたが行動しなさい、と言う。人が神頼みではなく、共働するとき、そこに、神がおられるのだ。それを「目覚める」ことなのだ。


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