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2008年11月2日(日) 死者の日 ヨハネによる福音書6章37-40節
イエスとの出会いは、私たちが生かされている、のだということに気づかせてくれた。イエスは出会った人、なかでも、生きるのに重荷を負っている人に手を貸そうとした。病気の人には癒しを、飢えた人にはパンを、孤独な人には寄り添いを、不当な扱いを受けている人には正義を。イエスと出会った人々は、生きることに勇気と夢と愛を持てた。人は他者と共に在るとき、己も生かされることをイエスは教えた。 死者のことを思うと、今の自分はその上に在ることと思う。 感謝して、私たちはその生かし合う輪のなかに連なろう。 |
2008年11月9日(日) ラテラン教会の献堂 ヨハネによる福音書2章13-22節
宗教は人を裁き、分断する。聖なるものと汚れたもの、救われるものとそうでないもの、と。ユダヤ教の神殿もその制度であった。聖の頂点である大祭司は神に近いものであり、汚れた貧しい者や病人、外国人は神の罰を受け救われない者として扱われた。更に、神殿は人々を経済的に搾取し続ける制度でもあった。現代のキリスト教とて例外ではない。 イエスは人を奴隷とする神殿体制を批判したのであった。 イエスを救い主として信じることは、キリスト教会がすべての人々に開かれ仕えるものとなることを意味しているのだ。 |
2008年11月16日(日) 年間第33主日 マタイによる福音書25章14-30節
イエスが生きたユダヤ教での信仰とは、神と契約を結び、それに忠実に生きることに他ならない。所謂、信条を信じることではない。即ち、神のことばを行い、従うとき、人は命と幸いを得るが、そうでないとき、人は死と災いを受ける。(申命記) それでは、神のことばとは何か。今日のタレントはまさに神のことば、呼びかけのことだ。 私たちは、イエスと出会い、彼から新しい命を得た。それは、イエスに従って生きることを選んだのだ。イエスは呼びかける、「隣り人を愛せよ。」このイエスの呼びかけに忠実であるだろうか。聞いただけで何もしない、つまり、地中に隠しているのではないか。 私たちを隣り人として待っている人がたくさんいる。戦争、貧困、病気、孤独の中にある人々だ。関われば、傷つくかもしれない。しかし、一人ではない。イエスがいて、仲間がいる。その支えのなかで、隣り人になって行くことが、イエスから預けられたことなのだ。 |
2008年11月23日(日) 王であるキリスト マタイによる福音書25章31-46節
十字架刑死に極まったイエスは永遠の命の祝福を与えられただろうか。然り、と信じるのがキリスト教だ。しかし、イエス自身はそのために生きたのだろうか。無論、ユダヤ教指導者たちの反感を買ったことから、結果は予想し、覚悟しただろう。 けれど、方向転換もできただろうが、それをしなかった。何故か、イエスにとって小さくさせられた人々への想い、関わりをしているだけだった。体制批判を初めから目指したわけではない。成り行きだったのだ。つまり、十字架刑死はただ小さくさせられた人々への想い、関わりの結果、無意識の果てだった。初めから、祝福されるためではない。 自分のためではない、人への想いを神は見られたのだ。 |
2008年11月30日(日) 待降節第1主日 マルコによる福音書13章33-37節
イエスの福音は、救いを待ち望むのではなく、既に、あるので、身を投じなさい、との招きだ。世界は変わらなければ、と誰もが思うだろう。それに対し、イエスはあなたが行動しなさい、と言う。人が神頼みではなく、共働するとき、そこに、神がおられるのだ。それを「目覚める」ことなのだ。 |
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