ももちゃんの一分間説教



今週の一句
葉に隠れ 膨らんで待つ 金木犀

―もとゐ―


 2008年10月5日(日)
 年間第27主日

 マタイによる福音書21章33-43節

21,33 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21,34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21,35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21,36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21,37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21,38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21,39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21,40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21,41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21,42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21,43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

 私たちは、事件や災害、失業や病気に会わず、幸いに暮らせることに感謝しなければならない。それが、神への礼拝だ。具体的には、恵まれない人々への関わりとなる。

 収穫物を神へ納めることは、困窮にある隣り人への援助なのだ。自分さへよければから隣り人もよい、方へと転換しよう。 
今週の一句
馥郁に 寂しさつのる 金木犀

―もとゐ―


 2008年10月12日(日)
 年間第28主日

 マタイによる福音書22章1-14節

22,1 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。
22,2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22,3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22,4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22,5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22,6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22,7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22,8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22,9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22,10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22,11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22,12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22,13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22,14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 イエスは、私たちの人生を豊かにしようと招く。しかし、それは、自己中心的ではない。神の意志に従うこと、つまり、道端に倒れた人々への関わりによって導かれる。

 私たちは、助けを求める人のそばを通り過ぎると、心痛い。自己を優先すると後ろめたい。その私たちをイエスは招く。すべてをおいて我に従えと。 
今週の一句
秋雨や 大根畑 青々と

―もとゐ―


 2008年10月19日(日)
 年間第29主日

 マタイによる福音書22章15-21節

22,15 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22,16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22,17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22,18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22,19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22,20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22,21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 国家の主権は国民にあり、と言えども、犠牲を強いられ、不当な扱いを受けている人々を見るとき、肯くことはできない。

 国家とどう向き合うべきかは、イエスの時代と同じく、私たちの課題となる。イエスは言われた、「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に。」先週の福音のように、キリスト者は自己優先から神、即ち、隣人優先に生きること、とするなら、その言葉も同様に考えるべきだろう。多数ではなく少数を大事にすることを、イエスは語られている。
今週の一句
闇夜裂く 香りの先の 落ち銀杏

―もとゐ―


 2008年10月26日(日)
 年間第30主日

 マタイによる福音書22章34-40節

22,34 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22,35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22,36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22,37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22,38 これが最も重要な第一の掟である。
22,39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22,40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 救急車で搬送されたけれど受け入れ先病院が見つからず亡くなった母親、イラク・アフガン戦争、ネットカフェ難民、あってはならないことが続いておきている。

 為政者たちは弱い立場の人々を更に犠牲に、富める者を擁護し続けている。その中でイエスは十字架まで、弱い立場の人々と共にあった。まさに、「神をすべてをもって愛した」のであった。宗教指導者たちは、それを神を冒涜したことと非難したにもかかわらず。

 現代の教会も同じだ。神を愛するとは礼拝や祈りを熱心にすることであって。上記のあってはならないことには無関心であることとしている。

 「イエスの生き方に目を向けよう。小さくされた者にかかわることに。」 


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