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2008年10月5日(日) 年間第27主日 マタイによる福音書21章33-43節
私たちは、事件や災害、失業や病気に会わず、幸いに暮らせることに感謝しなければならない。それが、神への礼拝だ。具体的には、恵まれない人々への関わりとなる。 収穫物を神へ納めることは、困窮にある隣り人への援助なのだ。自分さへよければから隣り人もよい、方へと転換しよう。 |
2008年10月12日(日) 年間第28主日 マタイによる福音書22章1-14節
イエスは、私たちの人生を豊かにしようと招く。しかし、それは、自己中心的ではない。神の意志に従うこと、つまり、道端に倒れた人々への関わりによって導かれる。 私たちは、助けを求める人のそばを通り過ぎると、心痛い。自己を優先すると後ろめたい。その私たちをイエスは招く。すべてをおいて我に従えと。 |
2008年10月19日(日) 年間第29主日 マタイによる福音書22章15-21節
国家の主権は国民にあり、と言えども、犠牲を強いられ、不当な扱いを受けている人々を見るとき、肯くことはできない。 国家とどう向き合うべきかは、イエスの時代と同じく、私たちの課題となる。イエスは言われた、「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に。」先週の福音のように、キリスト者は自己優先から神、即ち、隣人優先に生きること、とするなら、その言葉も同様に考えるべきだろう。多数ではなく少数を大事にすることを、イエスは語られている。 |
2008年10月26日(日) 年間第30主日 マタイによる福音書22章34-40節
救急車で搬送されたけれど受け入れ先病院が見つからず亡くなった母親、イラク・アフガン戦争、ネットカフェ難民、あってはならないことが続いておきている。 為政者たちは弱い立場の人々を更に犠牲に、富める者を擁護し続けている。その中でイエスは十字架まで、弱い立場の人々と共にあった。まさに、「神をすべてをもって愛した」のであった。宗教指導者たちは、それを神を冒涜したことと非難したにもかかわらず。 現代の教会も同じだ。神を愛するとは礼拝や祈りを熱心にすることであって。上記のあってはならないことには無関心であることとしている。 「イエスの生き方に目を向けよう。小さくされた者にかかわることに。」 |
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