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2008年9月7日(日) 年間第23主日 マタイによる福音書18章15-20節
イエスの神の国運動には、この世で虐げられ、顧みられなかった人々が招かれた。 彼・彼女たちはイエスの呼びかけに、目覚め立ち上がった。そして、みんなが尊重され、共に生きる神の国運動に加わった。しかし、個々には弱さを持っていた。 運動の継続には、互いの受け入れ、ゆるし、励ましが欠かせない。そのために、メンバーは祈った。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と。 教会の祈りは互いの弱さを認め、受け入れる時である。 |
2008年9月14日(日) 十字架称賛 ヨハネよる福音書3章13-17節
自民党総裁選挙、事故米騒動、等々。世界はどこでも自己利益追求に喧噪している。破滅に突き進んでいる。そんな世界と人間に神は永遠の命を与えようとされる。それは、イエスを人生の指針とすることによって。私たちは安心立命を得たい、が世界に執着し、不安でしょうがない。神からのありがたい招きに応えよう。 イエスに道案内してもらおう。 |
2008年9月21日(日) 年間第25主日 マタイによる福音書20章1-16節
神はふさわしくないにもかかわらずこの世界を愛している。 その神はこの世では不当にしか扱われない、夕の5時まで雇われなかった人々を正当に扱われる。それは、正当に扱われていると自惚れている者たちへの忠告だ。この世で恵まれている人々には責任がある。与えられた恵みを分かち合うことがそれだ。朝早く雇われた者たちは、それを感謝し、そうでない人々に心を配ることだ。 私の富はわたしのためのものではない、貧しい人に分かち合うためのものなのだ。 |
2008年9月28日(日) 年間第26主日 マタイによる福音書21章28-32節
聖書における信仰は神との契約を守ること。即ち、神からの命と幸いをいただいたから、神のことばを忠実に行うということ。従わなければ、幸いは取り上げられるのだ。 ユダヤ教の指導者たちには責任がある。その責任とは、すべての人が幸いになること。夕方遅く雇われた人には正当に賃金を払わなければならない。 しかし、彼らは娼婦や徴税人を不当に遇した、汚れた人と呼び、貧しい生活を強いたからこそ、神の祝福は取り上げられるのだ。 神からいただいた幸いを多くの人に分かち合おう。 |
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