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2008年8月3日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
飢餓問題が深刻だ。国内においても、野宿生活者は飢えている、と問題視しても、何もしない。自らを分かち合おうともしない。ただ、神に祈っているだけだ。 そんな私たちに、イエスは、あなたがたが彼らに与えなさい、と言う。万事がそうだ、人は何もせず、祈るだけ。イエスの言葉に呆然としてしまう。しかし、私たちへの呼びかけだ。「はい、そうします。」とマリアのように答えたい。 |
2008年8月10日(日) 年間第19主日 マタイによる福音書14章22-33節
イエスへの信従は、イエスを大船としてただ乗って行けば、無事に連れて行ってくれるというものではない。先週の群集へのパンの供食ではイエス何もしないで、弟子たち自身にさせたように。今週では、ペテロは湖上歩行をイエスがさせてくれると思っていた。が、イエスは何もしないので、突風が吹いたら、ペテロは沈みかけ慌てた。つまり、ペテロは自力で歩んでなくイエスまかせだった。イエスが「来い」と言ったのは、自分で歩いてこい、と言うことなのだ。ペテロたちの自分では何一つしない神任せの姿勢を信仰薄いと呼んだのだ。ペテロたちは歩けることを忘れていた。 私たちは、まず、神様、神様ではなく、まず、歩きだそう。沈んだらイエスは手を伸ばしてくれるから。 |
2008年8月17日(日) 年間第20主日 マタイによる福音書15章21-28節
イエスは私たちに一歩ふみだすよう、招いている。 異邦人の女性、ユダヤ教から見れば救いがたい人であるにもかかわらず、娘の病気を癒されたいがため、イエスのところへ一歩踏出した。抑圧された者は救いを待っていない、求めて行く。しかし、ユダヤ教の人々は神が働かれるのを待っていた。神が救うは当然と。ペテロの湖上歩行と同じだ。神は歩かせてくれる、と。母親の何もはばからない求める姿に、イエスは応えた。 私たちも、平和を望む、しかし、彼女のように求め続ける、つまり、行動をするようイエスは招いている。 |
2008年8月24日(日) 年間第21主日 マタイによる福音書16章13-20節
イエスは神の国運動に加わるよう、私たちを招く。第二ヴァチカン公会議以来、カトリック教会は教会を「旅する教会」と定義した。その旅とはイエスと共に歩む「神の国」運動即ち、弱い立場の人々に神の近さ、愛をもたらす運動だ。 マタイ福音書ではその教会の礎をイエスがペテロにした、と言う。歴史的事実ではないけれど、意図があると思う。それは、イエスから信仰薄い者、サタンと呼ばれ、ついには、イエスを裏切ったペテロがその礎であること。罪人、弱者が教会であるのだ。その旅は、ゆるしの中に続けられるのだ。 |
2008年8月31日(日) 年間第22主日 マタイによる福音書16章21-27節
イエスの神の国運動は、より高い価値の実現を目指す。例えば、すべての人が平等に生きること。イエスは当時の貧しい人、病気の人たちが幸いな人生を送れるよう、働いた。そして、それを気にくわない上の階層者から殺された。 アフガンで殺害されたNGOのIさんも同じだ。命をかけるものがあったのだ。イエスはそれを見つけて、いっしょに進もうと私たちを招かれている。 |
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