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2008年6月1日(日) 年間第9主日 マタイによる福音書7章21-27節
イエスは私たちの人生に強固な土台を与えてくれる。 それは、神、善人の上にも悪人のうえにも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる方。明日のことを思い煩はなくても、すべてを備えてくださる方。即ち、愛を中心に据えたネットワークに生きることを。 互いに繋がり合うことによって、生かし生かされる人生にイエスは私たちを招かれるのである。 |
2008年6月8日(日) 年間第10主日 マタイによる福音書9章9-13節
イエスは出会った生きるのに困難な人々と関わられる。 収税所に座っていたマタイ、その仕事上、人々から蔑まれ、憎まれ、排除されていた。マタイには生きることは辛かった。彼にイエスは声をかけ、同じく、ユダヤ教から「罪人=律法を守れない人々」と小さくさせられた者たちと食事を共にした。それによって、イエスは彼らに神が共にいることを示した。 神は人を分け隔てる方ではない、むしろ、人間が裁き、分けることを悲しんでおられる。 神は私をもその宴会に呼んでくださった、だから、私も困難にある人たちと手を取り合いたい。 |
2008年6月15日(日) 年間第11主日 マタイによる福音書9章36-10章8節
6月8日には、また、怖い事件が起きた。 生きるのに苦しんでいる人がたくさんいる。 イエスはそれらの人々を目の当たりしたとき、心が強く動かされた。そして、人々に呼びかけた。いっしょに、それらの人々と共に生きよう、と。 今、また、イエスは私たちに呼びかける。生きがたい人々の中へ出掛けよう。あなたがたは幸いをただで得たのだから、ただで分かち合え、と。 |
2008年6月22日(日) 年間第12主日 マタイによる福音書10章26-33節
イエスは生きるのに困難な人々と共に生きようとされた。そして、声を上げたが、時の権力者たちによって惨殺された。そもそもイスラエルの神がそうであった。 出エジプト記によればヒブル人という権利を持たない人々の側にいられたのだった。しかし、それは、皇帝ファラオとの戦いとなった。支配者たちはヒブル人を解放したくなかった、いつまでも、奴隷として所有し続けたかった。 現代日本では派遣労働者を非人間的扱いし、希望のない、まさに奴隷生活を強いている。いくら、批判されようが、支配者たちは改めようともしない。むしろ、強化し続けている。 イエスを信じるとはこれらの人々と共にあろうとすることだ。力を与えたまえ。 |
2008年6月29日(日) 聖ペトロ・聖パウロ使徒 マタイによる福音書16章13-19節
6月も終わり、色々あった。秋葉原事件、地震、台風の被害、イラク・アフガンでの戦闘、食品偽装事件、北朝鮮拉致事件問題、等々。混迷する現代社会で、イエスを救い主として信じることはどういうことなのか。教義を信じて礼拝に与り、天国へ行くことではないだろう。イエスの生き方に、混迷する社会を平等で平和な社会に変える神の意志を見て、それに倣うことではないだろうか。イエスは共に生き、仕え、分かち合った。 そこに人生の指針を見よう。 |
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