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2008年5月4日(日) 主の昇天 マタイによる福音書28章16-20節
弟子たちは十字架刑死のイエスに神を見出し、従うべき「主」に出会った。それは、「小さくさせられた人々」との徹底的関わりに自分たちを招かれる「主」であった。 自分自身がイエスにおいて立ち上がる喜びを得た弟子たちは、そのイエスを世界中に広めるため出掛けて行くのだった。 同じく私たちは、イエスと出会った喜びを伝えに行こう。 |
2008年5月11日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書20章19-23節
イエスは来られる。イエスの十字架刑死は弟子たちを奈落の底に落とした。声すらあげられなかった。ユダヤ人を恐れたからだ。しかし、彼らは立ち上がり、部屋の外へ飛び出し、声を上げて宣教した。彼らをそうさせたのは何か。福音書は語る。イエスが現れた、声を掛けられたことを。彼らは奈落の底で十字架上のイエスに出会ったのだ。そして、引き上げられたのだ。 イエスは、打ちひしがれ、孤立無援の私たちのところへ来てくださるのだ。手を伸ばし、引き上げてくださるのだ。さあ、わたしたちも出掛けよう。待っている人々がいるから。 |
2008年5月18日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書3章16-18節
イエスの十字架刑死に福音記者ヨハネは神の「世」に対するへの限りない関わりを見出した。「世」とは私を含む世界だ。こんな罪深い私をそれほどまで大切にしてくださるとは、何と言うことだ。 神は愛、命あるものすべてが生かされる事を望む。その極みが十字架刑死。 「世」、私は自己愛。自分さえよければ。そして、自滅して行く。自滅しないことを神は願っている。 その神の愛に出会ったとき、私たちは方向転換できる。互いに生かし合う道へ。 |
2008年5月25日(日) キリストの聖体 ヨハネによる福音書6章51-58節
ビルマや中国での大災害。多くの人命が失われ、家屋を奪われ、難民となった。 世界は理不尽だ。人はその理不尽な世界に生きなければならない。人はどう立ち向かって行けるのか。 イエス自身も周りも理不尽な世界に喘いでいる人で一杯だった。イエスは立ち向かったその理不尽な世界に。人は孤独ではない、生かされていること、支えられていること、愛されていることを身をもって示された。そして、世界によって殺され、理不尽さが勝ったのだ しかし、このイエスが人生の支え、導き手、となって、私たちを世界へ立ち向かわせるのだ |
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