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2008年4月6日(日) 復活節第3主日 ルカによる福音書24章13-35節
今日の箇所にも、イエスの十字架刑死に失望し、逃げ帰るた二人の弟子が登場する。二人にはそのイエスの死の理由が分からなかった。しかし、彼らは聖書を読み、イエスとの交流を想起したとき、目が開き、再び、危険なエルサレムへ引き返した。 私たちは、幾度と、イエスに失望し、夢破れ、逃げ出すことがある。この二人の物語を思い出す。聖書を読み返し、イエスとの体験を思い出そう。心が燃え、目が開かれる。そして、立ち上がれるのだ。 |
2008年4月13日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章1-10節
十字架で処刑されたイエスは誰だったのか。弟子たちには大きな疑問だった。聖書をむさぼり読んだ。そして行き着いた。イスラエルの民を治め、守る理想的な王、よき羊飼いに例えられるもとを発見した。この羊飼いは単なる雇われではない、羊を守るために命さえすてる者であることを。何のためか、羊の命が豊かになるためだ。豊かな命とは、互いに足を洗い合うこと、仕え合うことをイエスは示されたのだった。 現代は弱肉強食だ。弱く小さくさせられた人々を顧みない。自分さえよければの世界だ。イエスはこの世界に投げかけた、互いに愛し合おう、と。結果、殺された。 弟子たちはこの十字架事件に衝撃を受け、生の方向を転換した。命を奪う生き方から、命を分かち合う生き方へ、豊かな命への転換だ。 |
2008年4月20日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書14章1-12節
十字架刑死に至るイエスの生き様を目の当たりにし、自己の弱さにもだえ苦しんだ弟子たちは、そこに、「道、真理、命」を見出した。イエスが生きた人生、それは、全く、小さくされた人々と共にある生であった。自己を守ろうとすれば、この世と妥協すればよかったのだが、しなかった。なぜなら、それによって苦しむのは小さくされた人々である。 他方、弟子たちは自己を守る生き方に固執して、結果、惨めさを知ることとなった。 しかし、彼らは立ち上がった。イエスに「道、真理、命」を見出したからだ。そして、生の方向転換、決断をしたのだ。 |
2008年4月27日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書14章15-21節
イエスの十字架刑死、弟子たちが見たものはイエスの徹底的な関わり、何があっても、裏切られても、お前たちを見捨てないぞ、というイエスの思いではなかったか。弟子たちは、このイエスの限りない思いに、再び立ち上がることができた。 そして、このイエスの思いに、応えることがこれからの人生だと決意した。イエスのように「愛する」ことを。 |
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