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2008年3月2日(日) 四旬節第四主日 ヨハネによる福音書9章1-41節
生来目の不自由な男の人生はどんなであったろうか。病の苦しみ、家族や社会からの排除、宗教からの断罪、すべてから拒否された彼には生きること自体が苦痛であった。生まれてこなければ良かったとしか思えなかった。彼には安息日はなかった。 イエスは彼に心痛めた。そして、彼と関わった。それによって、イエスが支配者層から睨まれることが分かっていても。イエスとの出会いはこの目の不自由な男が支配者層を批判するまでに立ち上がらせたのだ。 いい人との出会いは目を開かせ、立ち上がらせるのだ。私たちもイエスとの出会いによって立ち上がることが出来た。社会の不正によって生きることが困難な人々との連帯のため、不正を正して行こう。 |
2008年3月9日(日) 四旬節第五主日 ヨハネによる福音書11章1-45節
イエスは「病気」を神の業が働くものとして肯定し、病人を「罪人」と見るこの世的考えを廃棄し、神の目から見ることを示した。イエスと出会った目の不自由な人は立ち上がった。 兄弟ラザロの死を姉妹たちは受けいれられず苦しんでいた。イエスは私を信じる者は「たとえ死んでも生きる」と言われた。イエスは、死は終わりではない、神の目からは生きているのだ。だから、この世、即ち、肉の目で見るのではなく、神の目から見るならば、ラザロは生きていて、姉妹たちと関わり続けていることがわかる、と言われた。 イエスは私たちの目を開かせられる。この世の目ではなく神の目から見ると、死ではなく生きているが、十字架が滅びではなく復活であることが。弱さは神の力であることが。 人生の苦しみを、神の目から見よう。 |
2008年3月16日(日) 受難の主日 マタイによる福音書21章1-11節
イエスが出会った人々は生きるのに困難を抱えていた。しかも、悪いことにこれらの人々を救済するはずの宗教がさらに苦痛を与え、希望を奪っていた。イエスはその総本山の神殿があるエルサレムへ入って行った。イエスはただ、人々を抑圧する神ではなく、仕え、愛し、解放する神を伝えたかった。イエスが子ロバに乗ったのはその象徴である。ローマは人々を征服するためには馬が象徴する巨大な軍事力を行使することへの対抗なのだ。 イラクにおける米軍のように、平和は決して軍事力ではもたらされない。 私たちも身を低くし仕えることによって神の望む平和を作りたい。 |
2008年3月20日(木) 聖木曜日 ヨハネによる福音書13章1-15節
イエスは生きるのに困難を抱えている人々を解放しようとした。 弟子たちは、イエスの信従によって自己の欲望を適えようとしていた。エルサレム入城において群衆からの熱狂的歓迎を目の当たりした弟子たちは一層、確信した。これで自分たちは出世できる。支配者となって権力を振るうことができると。 まさに、イエスへの悪魔のささやきにあった、悪魔への礼拝の代わりに世界を与えようとする誘惑の虜となっていた。 イエスは弟子たちの足を洗うことで、弟子たちの出世への執着を洗い清めようとした。即ち、下僕になること、イエスのように自己を捨てて仕えることが、生の執着から解放されることであることを。 主の晩餐は、解放の記念である。イエスに委ねることによって、暗闇、病気、死、生から解放された喜びの記念だ。さあ、いっしょに食卓に着こう。 |
2008年3月21日(金) 聖金曜日 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節
「誰をさがしているのか」。弟子たちはイエスに自分の出世を望んだ。大祭司たちはイエスに反乱者を見た。ピラトは王を。民衆はパンを。いづれも、自己の欲望に適う者をイエスに見た。 私たちはイエスに何を求めているのだろうか。 イエスはピラトに「真理」を証しに来たと言われた。しかし、ピラトはその「真理」が何であるか分からなかった。ピラトの「真理」は出世し権力を握ることであった。だから、弟子やピラトにはイエスの下僕になる生き方は理解できなかった。大祭司にとっては自分たちこそ「真理」であった。それ故、イエスは偽者となる。民衆の「真理」はパンである。 イエスの「真理」は神から愛され生かされていることに気づくこと。神の愛を知ったとき、生きるのも死ぬのも神に従うこと、これが「真理」なのである。自己の欲望、自我に従うことではないのだ。自分のためなら十字架に付けられはしない。 「誰をさがしているのか」。人間にではなく神に従ったイエスを見出そう。 |
2008年3月22日(土) 復活の聖なる徹夜祭 マタイ福音書28章1-10節
マタイはイエスを律法の完成者と信じた。律法とは「神と人を愛しなさい」につきる。イエスは小さくされた人々と共にいた。しかし、そのことが、律法によって裁かれることとなった。「神を冒涜した」ことが理由だ。 それにもかかわらず、マタイは何故、イエスを律法の完成者と言ったのだろうか。イエスを処刑したユダヤ教指導者らの律法遵守主義は神にではなく、人に従うことだった。彼らは神からではなく人からの評価を得るために律法を守った。従って、彼らの生き方は体制主義、利己主義となり、小さくされた人々とは関わらないあり方であった。 彼らにイエスは言った、「神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。 人からの評価を得る律法遵守主義ではイエスの生き方は容認できなかった。イエスは妥協することなく、神のみに従い、命を失った。イエスとの交わりを持った小さくされた人々は権力者によってイエスが惨殺されたことを受けいれなかった。神がイエスを起こされ、今も、私たちの間に生きていること信じ、それによって、生かされ続けた。これが、「復活」と呼ばれる出来事だ。 私たちも最後まで神に従い、小さくされた人々と共にいるイエスによって立ち上がることが出来たのである。だからこそ、世界に向かって、このイエスが今も生きて、働いていることを述べ伝えて行くのである。 |
2008年3月30日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19-31節
人生には二度と立ち上がれない絶望に陥ることがある。失敗、孤立、四面楚歌、焦燥感、自死すらできない自己への絶望。そのとき、人は閉じこもって隠れるしかない。弟子たちは、まさに、イエスへの裏切りとユダヤ人からの恐怖から立ち上がれなかった。 そんな彼らを立ち上がらせるのは、全面的に彼らを受けいれてくださる方の出現だ。弟子たちにとってそれはイエスの発見だった。生前のイエスにそれを見出したのだ。そして、彼らはその主イエスの宣教へ出発したのであった。 ある意味で、私たちの人生は挫折の繰り返しである。その度に、立ち上がらせてくださるのは主イエスである。その喜びを、他者へ伝えることこそがイエスの復活である。 |
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