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2008年2月3日(日) 年間第4主日 マタイによる福音書5章1節-12a節
イエスとの出会いは新しい人生の始まりとなる。ペトロたちは魚の漁師から人との関わりに生きる者へと転換した。 神との関係で、業績を上げようとして来た、いわば、エリートの信仰者たちはイエスとの出会いによって、自己により頼む生き方から神に委ねる生き方へと転換した。パウロが「弱さこそ神の恵み」と言って律法主義からキリストへの信仰に転換したように。 自分の無力さを知ったとき幸いが与えられる。というのは、神と人の愛を知らされるからだ。自分が出来ると思うとき、神と人から離れてしまうのだ。 |
2008年2月10日(日) 四旬節第一主日 マタイによる福音書4章1節-11節
イエスの神の国の宣教と十字架刑死は悪魔との闘いであった、というのが今日の箇所の主題となっている。 即ち、イエスが神の子であるなら、もっとたやすく宣教も出来、思い通りの神の国をつくれるだろう、が悪魔の誘惑である。 わたしたちの神への信仰も絶えずこの悪魔の試みに遭わせられる。神に従うと言いながら、自己を優先し、神を従わせようとする。人に仕えるのではなく、人を仕えさせる。思い通りに生きたいのだ。しかし、神への信仰とは、神の思いにいきることなのだ。 イエスが十字架の刑死まで自分を捨てたのは、自分には不可解であったけれど、神に委せたのであった。無論。私たちにはそんなこと出来やしない。にもかかわらず、イエスは招く、イエスの道を歩むように。さあ、いっしょに立ち上がろう、イエスが先を歩まれるから。 |
2008年2月17日(日) 四旬節第二主日 マタイによる福音書17章1節-9節
食品の毒物混入事件から、イラクや世界各地の戦争、紛争は私たちの安全を脅かす。安心、安全に暮らせることは誰もの願いであろう。そして、そのために、寄らば大樹のかげとなり、冒険や危険を避け、利己的に生きることとなる。人の痛み、苦しみには無関心になる。 ペトロのイエスへの発言、神殿を建てましょうは、ペトロはイエスの受難道を避け、イエスを留め置いて、御利益をいただくための礼拝の対象だけにする、という絶対安心が得たかったのではないか。 わたしたちの、イエスに天国は欲しいが、十字架は担ぎたくない、のと同じなのだ。 しかし、イエスはきっぱり拒否する。イエスは十字架の道、すなわち、小さくされた人々との関わり、連帯を進めて行く。 安心、安全を欲して利己的に生きてしまう私たちに、イエスは一歩出よう、そこに真の人生が待っている、と招いているのだ。 |
2008年2月24日(日) 四旬節第三主日 ヨハネによる福音書4章5節-42節
地球温暖化により水不足は深刻化、「水汲み」という女性の重労働はさらに厳しくなっている。何時間もかけて水汲みしなければならない女性たちのことを想像すると雨乞いせざるを得ない。今にいたるまで、女性の立場は弱く小さくさせられている。イエスは自分の旅の辛さ以上にその女性たちの苦しみに心が強く動かされたのだろう。何とかしなければ、関わりたい、と。そして、声をかけた。 私たちは自分の生の困難さに気付かず満足している。従って、イエスに求めるものがない。しかし、例えば、水汲みに苦労している女性たちのことに思いを馳せるなら、イエスに願うことが山ほど出てくる。イエスの与える永遠の命に至る水とは、私たちの関心を弱くさせられた人々に向けさせることではないだろうか。 |
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