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2008年1月1日(火) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
荒野で夜通し野宿しながら羊の番をする羊飼いに取っての救いとは何か。 また、宿もなく家畜小屋で出産しなければならなかったマリアたちにとっての救いは何か。そして、現代人にとっては。聖書の語る救いは物質的なものではない。もちろん、生存に必要なものを否定はしない。 羊飼いやマリアにとっての救いは、苦境にある自分の存在を受けとめる人がいること、気にかけている者がいること、手を伸ばしてくれる方がいることではないだろうか。 荒野で仕事していた羊飼いたちを誰が心配してくれると言うのだろうか。天使の声は、羊飼いたちに熱いものを与えたに違いない。家畜小屋のマリアら心細さを誰が気遣ってくれるというのだろうか。羊飼いらの訪問は、マリアたちにとって本当に嬉しかったに違いない。 新しい年のはじめ、世界の平和を願います。私たちが互いに人を思いやり、気遣い、手を差し伸べられるようになることを願います。 |
2008年1月6日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
新しい年が明けた。期待と不安の入り混じる何とも落ち着かない心境だ。希望が適えられるかもしれないし、間違いや失敗が起きるかもしれない。心理学者は希望と不安は同じことだと言う。つまり、未来には何が起きるかわからない、それを肯定的に受けとめるのか、否定的に受けとめるのかの違いだと言う。今日の聖書の箇所からは、それを神の目から見るのか、人間の目から見るのかと置き換えたい。 神の目とは、すべてを委ねること。学者たちは星、つまり、神の導きに行きも帰りも委ねた。そして、人間的には損したけれど神の前では豊かになった。他方、ヘロデは人間の知恵、狡賢さ、力に頼った。つまり、未来を人間的に処理しようとしたのだ。結果、無辜の幼児たちの生命を奪った。 人生は理不尽なことばかりだ。イエスの十字架も然り。イエスには十字架は理解できなかった。しかし、イエスはすべて神に委ねた。また、学者、ヨゼフ一家のように神に委ねられた。私たちには、それは不可能だけれど、ついて行きたい。 |
2008年1月13日(日) 主の洗礼 マタイによる福音書3章13節-17節
学者たちやヨゼフは人生をこの世の権力者に委せるのではなく、神に委ねた。結果、ヘロデとは違った人生を生きられた。 青森や昨年の佐世保での事件など、考えられない犯罪が続いている。何をして人を凶悪な犯罪に走らせるのかわからない。もし、彼らがイエスと出会っていれば、違った結果になったかもしれない。私たちキリスト者の使命がそこにある。結果如何にかかわらず、ともかく、イエスがキリスト、つまり、あの家畜小屋で生まれた方、磔にされた方こそがあなたを愛していること、を伝え続けねばならないのだ。 福音は洗礼の場面でイエスがその使命を与えられたことを告げている。 |
2008年1月20日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章29節-34節
神様は人を呼び出す。 人にはそれぞれ生きる意味がある。その意味をどこで見出すかが問われる。ヘロデはこの世の権力に見出した。しかし、それは権謀術数渦巻く血なまぐさい人生であった。他方、ヨゼフ・マリアや学者たちは、この世では愚かで貧しい、敗者の人生であったかもしれない。しかし、神の招きを受けいれることによって、小さくされた人々と共にあり、未来に繋がる豊かな人生となった。 洗礼者ヨハネは神からの呼びかけに応えた、即ち、イエスを「神の子」と証しする使命を与えられた者として受けいれた。自分を売り込むのではなく、イエスのもとへ人々が来るための道具となった。結果、ヨハネはヘロデによって殺害された。しかし、イエスに繋がる人は後を絶たない。 神は私たちを呼び出してくれる。私たちに生きる意味を与えてくださる。喜んで神に応えて行こう。 |
2008年1月27日(日) 年間第3主日 マタイによる福音書4章12節-23節
イエスの呼びかけは特別な時にではなく、日常に行われる。 ペトロたちは生業の漁をしていた。そのまっただ中へイエスは声をかけた。 「わたしについてきなさい」と。 つまり、イエス、神からの呼びかけは日常の出会いから聞えてくるということだ。 街で、家庭で、職場で、電車の中で、仕事中、遊んでるとき、等々。私たちに手を差し出すように招いている。イエスはガリラヤで出会った病む人、飢えた人、道に迷っている人々と関わられた。有名になるためではなく、かえって、命まで差し出した。 日常からの声に立ち止まり、手を伸ばすことが、イエスについて行くということなのだ。 |
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