ももちゃんの一分間説教



今週の一句
絶景かな 齢重ねし 秋深し

―もとゐ―


 2007年12月2日(日)
 待降節第1主日

 マタイによる福音書24章37節-44節

24,37 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24,38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24,39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24,40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24,43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24,44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 典礼暦では新年を迎えた。新たな気持ちで、福音書を読んで行こう。

 「目を覚ましていなさい。」時の経つのは早い。気がついた時には遅い、と言うことがよくある。戦争、災害、人災、みな兆候があっても、足許に迫って来ても、動かない。人間の愚かさだ。

 イエスは言う、神様が与えてくれた生命じゃないか。無駄にしてはいけないよ。大切に大切にしよう、と。

 「目を覚まし、動こう」。 
今週の一句
銀杏黄葉 夜更けの街の 仁王様

―もとゐ―


 2007年12月9日(日)
 待降節第2主日

 マタイによる福音書3章1節-12節

3,1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3,2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3,3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3,4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3,5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3,6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3,7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3,8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3,9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3,10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3,11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 洗礼者ヨハネは「悔い改め」を荒れ野で呼びかけた。「悔い改め」は神に立ち返るということ。当時のユダヤの宗教も政治も飢え苦しむ弱くさせられた人々に目を留めなかった、見捨てていた、つまり、神に戻っていないのだ。荒れ野とは人里離れた所と言う意味だけではなく、小さくさせられた人々の状況をも指す言葉だ。都会にいるファリサイ派と呼ばれる、人一倍信仰熱心なグループ、同じく、神殿での祭儀を守り罪のゆるしを願うサドカイ派と呼ばれる人々、その中からは、決して、「悔い改め」の叫びは出て来なかった。なぜなら、自分たちは正しい、模範的な信者であると自負しているから。

 現代の大多数の教会からも「悔い改め」、即ち、神へ戻れ、の叫びは聞えない。

 弱くさせられた人々の関わりはないにも等しい。にもかかわらず、典礼や信心業には熱心であるから自分たちは良い信者だと思っている。

 しかし、大半の教会からはアカだ、間違っていると嫌悪された「解放の神学」に立つ教会は、荒れ野、即ち、小さくさせられた人々と共にあろうとし、苦難にあいながらも「悔い改め」を叫び続けている。そこに、希望がある。

 日本の教会も、荒れ野の声になろう。小さくさせられた人々からの「悔い改め」の声を聴こう、そのために、洗礼者ヨハネのように荒れ野に出て行こう。  
今週の一句
銀杏落葉 深夜の公園 積もりたり

―もとゐ―


 2007年12月16日(日)
 待降節第3主日

 マタイによる福音書11章2節-11節

11,2 〔そのとき、〕ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11,3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11,4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11,5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11,6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
11,7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11,8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11,9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11,10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11,11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

 荒野からの声には資格はいらない。洗礼者ヨハネは預言者としての資格があったのか。ファリサイ派ら宗教指導者は悪霊憑きと呼んだ。同じく、イエスには、大食漢大酒飲みと呼び、罪人の仲間、即ち、反社会のレッテルを貼った。

 今、薬害肝炎の患者たちの叫び声を官僚、政治家は聞こうとしない。彼女・彼らの悲痛な声を。また、野宿者の叫び声にも、多くの人は耳を傾けず、「怠け者」という反社会のレッテルを貼り続けている。

 イエスはその声に心強く動かされ、立ち上がり、駆け寄って行った。

 聴く耳を持とう。力ある者の声にではなく。弱くさせられた人々の声を。馬小屋に宿をとるしかなかった親子の声を。    
今週の一句
落葉の 林に紅き 残り柿

―もとゐ―


 2007年12月23日(日)
 待降節第4主日

 マタイによる福音書1章18節-24節

1,18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1,19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1,20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1,21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1,22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1,23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1,24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ〔た。〕

 荒野の声は名もなく貧しく小さくさせられた人から発せられる。

 ヨゼフ、婚約者のマリアが身籠もった、この理不尽な出来事をどのように受けとめたのだろう。ユダヤ教では密通と分かれば石打の刑に処せられる。ヨゼフは彼女を庇った。大きな非難、中傷があっただろう。しかし、彼女と共にあった。この苦難を耐え忍んだヨゼフとマリアを人々は「インマヌエル、神が共にいてくださる」と讃えたのだ。

 神が苦難を強いられる人々の守り手であり、導き手であることをヨゼフの話しは伝えている。
今週の一句
落葉掻く 大地の下に 命の芽

―もとゐ―


 2007年12月25日(火)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 自衛隊がミサイルを打ち落とす実験に成功した、とのニュース。一方で世界は飢え、貧困、病いに苦しみ、国内では増税、社会保障費削減に喘いでいるのに、他方では軍拡競争、軍事費に莫大な金を浪費し続けている。

 ヨゼフ、マリアの夫妻はローマ帝国の軍事費を徴収するための人口調査に強制的な移動をさせられ、宿すらない、貧しい、名もない人々のうちの二人だった。

 羊飼いたち、誰からも、尊敬されず、相手にされなかった職の得られない境遇の人々、やむなく、野宿の汚い、きつい、危険、安い仕事の羊飼いになったのだ。

 神はどこにおられたのか。軍拡競争する強国の支配者層にではない、ヨゼフ、マリア、羊飼いの傍にこそおられるのだ。

 神のもとへ行こう、荒野の人々のところへ。 
今週の一句
満月や 闇夜に昇る 降誕祭

―もとゐ―


 2007年12月30日(日)
 聖家族

 マタイによる福音書2章13節-15節、19節-23節

2,13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2,14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2,15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2,19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2,20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2,21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
2,22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
2,23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 パキスタンでは、ブット前首相が暗殺された。巻き添えに、多数の市民が殺された。敵と思い脅威を感じた人々の行為であろう。ブッシュ米国大統領もイラクを危険として戦争を始めた。そのために何十万とも言われる無辜の人々を殺害した。

 権力は怖い。弱者はいつも犠牲を強いられる。それは、国家間だけではなく会社でも、学校や家庭でも同じではないか。

 ヨゼフ一家も権力によって翻弄された。この家族の支えは神であった。為す術を持たない弱くされた人々を見守るのは神であり、この神に信頼し従う人々を「聖」と呼ぶのである。  


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