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2007年11月4日(日) 年間第31主日 ルカによる福音書19章1節-10節
ザアカイ物語は、富者と神の出会いを語っている。 富は人を幸せにはしない。富への執着は人から嫌われ、孤独にする。 孤独ゆえに、また金に執着する。悪循環から逃れられない。その悪循環を断ち切るには、神との出会いが必要だ。神との出会いは人との交わりの大切さに気付かせる。人との関わりに生きるとは富の分かち合いに他ならない。神との出会いは人を孤独から解放し、富の執着からも解き放つ。 |
2007年11月11日(日) 年間第32主日 ルカによる福音書20章27節-38節
「復活」とは、あの世が何であるかを問うものではない。神が誰であるかを問うことだ。正しく生きた人を神はどうなさるのか、そして、悪に生きた人にはどうされるのか、という問い。それは、迫害時代、信仰に殉じた人々への想いが、そのような問いとなったのだ。 レビアート婚に代表されるように当時の女性の立場は弱かった。家を残すための道具でしかなく、女性たちの人生は苦難にみちていた。創世記のタマルの話しは悲しい。 イエスの言う復活は、これらの女性たちの苦しみ、悲しみから解放する神のことを教えているのだ。そして、あの世のことではなく、今、わたしたちが神中心に生きるとき、女性の苦しみを解放する働きに参与することをも教えているのだ。 神は「生きている者の神」なのだ。 |
2007年11月18日(日) 年間第33主日 ルカによる福音書21章5節-19節
目を転じれば、悲惨なこと、苦難、困難なことが数多く見えてくる。しかし、目を閉じれば、まあまあな暮らしに安住してしまう。 そんな怠惰な私たちにイエスは目を開けろ、と呼びかける。そして、証しを続けなさいと呼びかける。教会の使命がここにある。悲しみ、苦しみを少しでも減らす働きを続けること、それが、イエスに従う証しなのだ。 |
2007年11月25日(日) 王であるキリスト ルカによる福音書23章35節-43節
目を転じて、世界と自分自身の内憂外患に直面したとき、目を覆いたくなる。神的力を求めざるを得ない。政治宗教の腐敗、神殿の崩壊、エルサレムの滅亡、飢饉、大災害、等に見舞われたユダヤの人々にもきっと民族に伝えられてきたメシア、救い主の到来を願ったに違いない。イエスにも期待した。しかし、メシアとして期待したイエスは目の前で十字架につけられてしまった。無惨なイエスを見て、裏切られた人々の恨みは増幅するばかりだった。 しかし、その中に、一人イエスの傍に立った者がいた。同じ十字架につけられた強盗であった。それまで、イエスは小さくされた人々の傍に立たれたが、自分の傍には誰もいなかった。 イエスは十字架の苦痛の最中、隣人を見出した。まさに、楽園に入るのだった。 神もまた隣人を必要としている。神一人では何もできない。イエスが王という意味はそれなのだ。 |
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