|
2007年10月7日(日) 年間第27主日 ルカによる福音書17章5節-10節
ミャンマーの僧侶たちが動いた。長い軍事独裁政権の下、人々は苦難の生を強いられてきた。民衆の叫びに、ついに、僧侶たちは心動かされたのだろう。そして、立ち上がった。その僧侶たちの姿を見て、無数の民衆も立ち上がった。もちろん、結果は、弾圧された。 からし種一粒の信仰があれば立ち上がることができる。大きな仏様、神様がいてくれるからだ。世界の悪、苦しみに立ち上がろう。 |
2007年10月14日(日) 年間第28主日 ルカによる福音書17章11節-19節
「あなたの信仰があなたを救った。」病気を癒された人々の中で一人だけ、神を賛美し、イエスの足許にひれ伏し感謝したこの人に言われた、イエスのことば。ということは、「信仰」とは値しないにもかかわらず自分に神が働いたことを認め、神を賛美し感謝すること、となる。帰って来なかった他の9人は神の働きがあったにもかかわらず、感謝しなかった、つまり、恩を感じなかったから、それは「信仰」ではないとイエスは言う。しかし、神の働きは見えない、神に感謝できないのだ。 ビルマ(ミャンマーは軍事政権が押しつけた国名では民主化を望む人々は使わない、とのこと)の僧侶たちは仏様を信じて立ち上がったけれど、弾圧され、迫害を受けている。彼らは仏様に感謝しただろうか。できるだろうか。歴史上、非暴力の闘志たち、イエスを初めは非業の死を遂げている。しかし、その想いは受け継がれ続けている。神は仏様は確かに働き続けている。 私たちは、賛美し感謝したい彼・彼女らを。そして、立ち上がりたい。神を信じて。 |
2007年10月21日(日) 年間第29主日 ルカによる福音書18章1節-8節
癒されたサマリア人は身に起こった神の働きに、この上なく感謝した。 神においてのみ自分の存在を置くしかない者は、何をも恐れない。 やもめは当時のユダヤ教社会では、無言の者、語れない者として、また、支配と搾取を受ける者として、誰からも相手にされなかった。裁判においてさえ。しかし、神に身をおく者は強い、必死に嘆願する。結末は悲劇かもしれない。それでも、イエスと同様失望することなく訴え続けるのである。ここに、芥子種一粒の信仰がある。 私たちも、このやもめにならい現代の悪と闘い続けよう。 |
2007年10月28日(日) 年間第30主日 ルカによる福音書18章9節-14節
孤立無援のやもめは神に信頼して立ち上がった。 徴税人、社会の除け者、夢も希望も持てなく、社会の片隅で小さくなって生きている。やはり、孤立無援。誰が彼に目を留められ声をかけるだろうか。 ファリサイ派、宗教的には熱心、社会的には中流、誰からも人目おかれ、尊敬される。社会で大手をふって生きている。この世的には、後者は立派、いい人。前者は落ちこぼれ、駄目な奴、悪い人である。 しかし、神は孤立無援の徴税人の側に立つ。理由は分からない。神がそう選ばれるのだ。 私たちはこの神の選びにどう答えられるだろうか。大きな宿題である。 |
|