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2007年9月2日(日) 年間第22主日 ルカによる福音書14章7節-14節
神の国、幸いの門は開かれている。 しかし、人々の幸いは上席に座ること、人よりいい暮らし、いい家、いい車を手に入れること、その競争に身を削っている。その限り、神の国の門は閉ざされている。 やはり、神の国へは入るものではなく、神から一方的に招待されるものなのだろうか。 神の招きは、無償である。何も見返りを求めない。むしろ、イエスの十字架死という犠牲を払っている。思い出そう、「自分を愛するように人を愛しなさい」。 自分が幸いになりたいと思うのは、人も同じだ。だから、人の幸いに奉仕することは自分の幸いである。 神の国は、私たちを人々の幸いに目を向けさせる。 |
2007年9月9日(日) 年間第23主日 ルカによる福音書14章25節-33節
神の国は開かれている。しかし、そこで生きることは既成の価値観を放棄することである。 小さくされた人への尊敬、仕えること。暴力、富の放棄、等々。その結果、既成の価値観を共有していた家族、仲間との訣別となる。イエスの言う「狼の中へ小羊をおくること」「狭き門」である。凡人には至極困難なことである。けれど、既成の価値観では決して幸いにはならないことは人類の歴史を見ても明らかだ。 イエスはそれを打破しようと、私たちに呼びかける。イエスは私たちに生き甲斐を与えた。さあ、前進しよう、イエスにぶらさがって。 |
2007年9月16日(日) 年間第24主日 ルカによる福音書15章1節-10節
神の国は開かれているだけではなく、手を伸ばして来る。 人生は思い通りにならない。特に、境遇上、弱い立場にある人々ほどそうだ。福音書に出てくる徴税人や遊女は、社会的宗教的に「汚れた人」として差別され排除され、人生の幸いを与えられない。 しかし、思い通りになると勘違いしている人たちもいる。福音書のファリサイ派や律法学者たち、いわば、中流以上の立場の人々だ。自分たちは成功者と自惚れ、前者を軽蔑している。前者が路頭に迷っていても「自業自得」と言って関わらない。ところが、後者が前者になるのは紙一重なのだ、が、後者は分かろうとしない。いざ、後者が路頭に迷っても、誰も助けない。これが、この世だ。 そんなこの世の決まりをひっくり返すのが、イエスが父と呼ぶ神だ。なぜなら、神は人を人の上に立つために創られたのではない、共に生きる、隣人になるように、そこに生き難い人生の希望があると創られたのだ。 まず、神はイエスとして人々の隣り人となった。十字架の刑死という無様になっても。小さくされた人々はイエスにおいて思い通りにならない人生に希望を持った。 人としての生き方が問われる。人の上に立ち、関わらずに生きて行くのか。それとも、無様でも、人と共に生きて行くのか。後者を選んで生きたい。 |
2007年9月23日(日) 年間第25主日 ルカによる福音書16章1節-13節
神は小さくされた人々を迎えに行く。 不正を行ったと告げ口された管理人は不当にも解雇され、路頭に迷わざるを得なかった。彼は知恵を働かせて、苦境を乗り越えようとした。この世では、管理人のしたことは不正である、しかし、孤立無援の中で他に方法があったであろうか。 まして、不正だと告発して、何の関わりも持たない、管理人を助けない正義ぶった中流以上の人ばかりいる中で。神は管理人を褒める。小さくされた人の傍にいる。この世の常識から非難されても。 わたしたちも、いつ管理人と同じ目にあうかも知れない。誰が傍にいてくれようか、隣人になってくれるのか。だからこそ、私が隣人になりたいと思う。 |
2007年9月30日(日) 年間第26主日 ルカによる福音書16章19節-31節
私たちは、日頃から、多くの悲惨な人々を見る。かわいそうだ、気の毒だと思いはするが、それらの人々に何かすることはない。相 変わらず、自分中心に生きている。見ただけで通り過ぎて行く。あの祭司やレビ人と同様なのだ。今日の金持ちは乞食で病気のラザロをいつも門前で見ている、けれど、何とも思わず、有り余るパンの一切れさえ与えない。他人のことはどうでもよいのだ。そういう人生に何の疑問も感じず、満足して死んで行った。 イエスは他者、なかでも、この世からはマイナスと評価された人々のために生命を与えられた。何故、イエスにはそれが出来たのだろうか。 聖書には、イエスがかの人たちに「心を強く動かされた」と書かれている。他者の痛みを自分の心がちぎれるほどのものと感じられたのだ。金持ちやわたしたちと違うのこの所だ。 「心を動かされる」、自分の痛みとして想像すれば、動かざるを得ない。「鈍感力」の言葉が流行しているが、他者の痛みにだけは鋭敏でありたい。でなければ、人生は虚しい。 |
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