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2007年8月5日(日) 年間第18主日 ルカによる福音書12章13節-21節
イエスは「主の祈り」のなかで隣人を覚えようと言った。私たちが周りの、飢えた人、借金でどうにもならない人々のことを思い出せと。 今日のたとえ話の金持ちは、うらやましい人だ。彼なりに一生懸命働いた、その結果、豊作になり、倉に収めきれないほどの財産を得た。しかし、残念なことに、過労のせいか死んでしまった。折角、贅沢に遊び暮らせるようになったのに。でも、財産を残したから立派な人と賞賛するのがこの世界ではないか。 ところが、イエスは神さまはそう思わないとおかしなことを言う。何故か、今の資本家と同じように、当時の大地主は、過酷な税金や借金の取り立てで、まさに、農夫を飢えさせ、土地を奪い、流浪化させる元凶だった。(日本の『おしん』を思いだそう。)だから、その儲けは農民たちから搾り取ったのである。彼には、隣人は見えなかった、自分の欲望を満たすことばかりであった。そこをイエスは神には認められない、と言っている。 イエスにとって、神にとって、人生は人と共にあることなのだ。構造悪におらざるを得ない私たちだが、悪を減らすために、隣り人になって行きましょう。 |
2007年8月12日(日) 年間第19主日 ルカによる福音書12章32節-48節
イエスは人と共にいるよう、呼びかけられる。 私たちは、神様から任命されている。神様の思いを広めるようにと。神様の思いとは、生きとし生けるものが尊重され、大切にされることだ。あの金持ちは、その富や力が自分のためにあるのではなく、そのために神様から与えられ、活用することを知らなかったのだ。祭司やレビ人はやはり自分が襲われ傷ついた人を介抱するためにその地位を与えられたことを知らなかった。マルタはマリアと共にいるように召されたことに気づかなかった。 主の祈りを祈る時も同じだ。 私たちは互いが隣人になるように、神様がその生命をお与え下さった。神様はその尊い使命をこんな小さい私たちに託された。その有り難さに喜んで応えて行きましょう。 |
2007年8月19日(日) 年間第20主日 ルカによる福音書12章49節-53節
人は嫉妬深いものだ。神様はイエスをとおしてご自分が小さくされた人を大切にされることを明らかにした。そうしたら、自惚れていた人々が反発した。嫉妬からの憎悪は激しい。人は自分だけを大事にして欲しいと思う。 イエスは「自分だけ」から隣り人に目をひろげるように人に呼びかけた。人は隣り人として生きるように神様が命を与えられたとイエスは教えられた。 私たちは「自分だけ」から脱皮しよう。そこには広い広い世界が待っている。 |
2007年8月26日(日) 年間第21主日 ルカによる福音書13章22節-30節
救いの門は開かれている。しかし、閉められる時がある。 人生の幸いもそうである。幸いは目の前にある。しかし、消える時がる。 隣り人になるチャンスはいつもある。しかし、自己中心的に生きている時、チャンスは消えている。 イエスはいつも呼びかけている。けれど、他の声に従っているとき、幸いはその門を閉じている。 チャンスを逃さないように。イエスの招きに飛び込んで行こう。 |
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