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2007年7月1日(日) 年間第13主日 ルカによる福音書9章51節-62節
イエスは宣教の旅についてくるよう招かれる。 イエスの宣教は今、目の前にいる貧しい人、病む人、差別されている人が神から大切にされていることを知らせることだ。そのために、イエスは出会った彼・彼女と全部を捨てて関わった。思い煩いから自由になって。 私たちの日々は、思い煩いで一杯だ。そこから、出られず、人との関わりも中途半端だ。その私たちに、イエスはついてくるよう呼びかけられる。なんと有りがたいことだろう。イエスの招きに、重い荷物をもってついて行こう、一つずつ荷物が減るだろう。 |
2007年7月8日(日) 年間第14主日 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節
イエスは私たちを宣教に派遣する。 私たちはイエスに呼び出された。人々に神の愛、すなわち、あなたは大切な人ですよ、と伝えに行かないかと。イエスのように病、貧困、いじめや暴力に小さくさせられた人々の友になるようにと。そのイエスには力も、富も、地位もなく、遊行僧のように人々の善意にしか頼れなかった。もちろん、神の深い愛には包まれていた。 私たちはイエスから何をいただいたのだろう。神の子として、スーパーマンとして、金持ちとしての力ではない。そばに「いる」ことだけではないか。 宣教、小さくさせられた人々の友として生きるとは、そばに「いる」、大切なあなただから、そばに「いる」ということではないか。 |
2007年7月15日(日) 年間第15主日 ルカによる福音書10章25節-37節
イエスは小さくされた人々と共にいなさい、と私たちを派遣する。 参議院選挙が始まった。年金問題に隠された憲法改悪が心配だ。米軍の戦争に参加できるようになれば、年金なんて消えてしまうだろう。 さて、今日のたとえ話は、今の日本の状況にも例えられる。小さくされた者、ホームレス、ワーキングプア、高齢者、障害者はどんどん生み出されるが、地位や権力ある者は放置して通り過ぎて行く。 結局、小さくされた者を見捨てず関わるのは、同じく小さくされた者なのである。ということは、キリストに従う者は自らは、小さくされた者にはなれないから、学び、共感できることが大事なのだ。 神にその力を願わずにはいられない。 |
2007年7月22日(日) 年間第16主日 ルカによる福音書10章38節-42節
イエスは隣人になれ、と呼びかける。 即ち、人に奉仕することだ。奉仕にはいろいろある、マルタのように一生懸命もてなすことやマリアのように足許に座っていることだ。しかし、マルタは確かによく働いているが自己中心的だった、見返りを求めたのだった。そして、自分ばっかりに思い乱していたので、マリアを責めるが隣人にはなっていなかったのだ。 マリアは知っていた、自分が何も出来ないことを。イエスの隣人になるには座って話しを聴くだけだったのだ。身をそばに置くことしか出来ないのだ。マリアにはイエスが隣人になったのだ。 私たちは自己中心で無力であることを。しかし、奉仕したい、隣人のイエスに頼って。 |
2007年7月29日(日) 年間第17主日 ルカによる福音書11章1節-13節
イエスはマリアのような小さくさせられた人の隣人になれと、私たちを招く。苦難や悲しみにある人々に、慰めや励ましの言葉をかけることは難しい。本人の思いを分かることはできないからだ。 では、どうしたら、隣人になれるのか。今日、イエスの教えた「主の祈り」と言われるものにそれが隠されているかもしれない。 まず、神の名を讃え神の国を求めること、つまり、自分の無力を認め、神の働きを切に求めるのだ。次に、今、当事者の一番必要なものを切に求めること。 結局、隣人にはなれない自己の発見が「主の祈り」なのだ。マリアのように足をがたがた振るわせながら、そばに座っているしかできないのが私たちではないのだろうか。 |
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