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2007年6月3日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書16章12節-15節
弟子たちにとってイエスはいない。イエスに呼びかけても、答えは返って来ない。彼・彼女らはどこに頼ったらいいのだろう。 彼らは源点に帰った、父なる神を思い起こした。人は父の息によって、ただの土くれから生きる者となった。父の息を吹きかけてもらわなければ、生きられないことを思い起こした。 そして、イエスとの出会いによって生まれ変わった自分たちはイエスの息、即ち、聖霊を受けなければ生きて行けないことを悟ったのである。聖霊を吸うことによって、生きたイエスに出会うことができるのだ。 私たちも聖霊を受けよう、そして、イエスと生きる喜びを伝えに行こう。 |
2007年6月10日(日) キリストの聖体 ルカによる福音書9章11b節-17節
聖霊において、弟子たちはイエスと宣教する。イエスらのもとには寄る辺ない貧しい人々がやって来る。イエスは彼・彼女らに目を留め、応えられた。手をのばし、癒し、そして、食卓を共にした。それらを、ルカは神の国の宣教と呼ぶ。 そうであるなら、今日の教会にとってそれは、まず、小さくさせられた人々の中に入って行くことではないか。入れば、次から次へと課題が生まれて来る。いっしょに応えて行かざるを得ない。教会自身は無力だから、知恵、勇気は彼・彼女たちから学ばなけれればならない。 教会が神の国を伝えるのではない、教えられ、学び、悟ることなのだ。 小さくさせられた人々のところへ出掛け、聴きに行こう。 |
2007年6月17日(日) 年間第11主日 ルカによる福音書7章36節-8章3節
小さくさせられた人々はイエスのもとへやって来る。 「罪」の女性は大胆不敵だ。シモンに遠慮しない、周りの男たちにも気にしない。ユダヤ教の戒律を踏出し、イエスにさへ大胆に近づく。これほどに行動する女性には拍手喝采だ。 ユダヤ教社会は、どれほど彼女を苦しめてきたであろう。女性であること、生きるために辛い仕事をしなければならないこと、彼女の思いを顧みることなく、彼女を「罪人」と呼び、社会から追い出すユダヤ教の男たち、如何ほど、彼女は小さくさせられて生きてきたことであろう。 その彼女に朗報が届いた、貧しい人々と食事をともにし、病人に手を触れ、悪霊を追放する方が来られる、ということを。 彼女は決断した。今の状況から脱して、自分を主張して自由に、豊かに生きたい、この思いを受けとめて欲しい、イエスに会おう、と。 イエスは彼女の行動に感嘆した。彼女の何が何でも、という必死の行動に。信仰とは、この必死の思いと行動なのだ。 パレステイナはじめ、世界は混乱している。 彼女の信仰を思いだそう。必死な思いと行動がそれを変えることを。 |
2007年6月24日(日) 洗礼者ヨハネの誕生 ルカによる福音書1章57節-66節、80節
神は小さくさせられた人々を顧みられる。 神は下級祭司の老夫婦に子どもをあたえられた。 しかし、その子どもは彼らの願いをかなえる子ではなかった。神の使命を生きる者であった。それは、イエスも同様だ。マリアの思い通りになる子ではなかった。 人はみな、それぞれにただ一つの神の使命を生きる者としてこの世に遣わされたのである。人は、それを見分け、育てるのである。 私たちの生命は神のもの、生きる使命も神のもの、すなわち、すべてを生かすこと。ここに幸いを見出そう。 |
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