ももちゃんの一分間説教



今週の一句
青空や 白襟まぶし 新入生

―もとゐ―


 2007年5月6日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書13章31節-33a節、34節-35節

13,31 さて、ユダが〔晩餐の広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13,32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13,33a 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。
13,34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13,35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 イエスは神の栄光を表した、と言うが、その栄光と何であるのか。

 それは、形而上学的なものではなく、イエスの人々への関わり、十字架刑死までの具体的な関わりからしか私たちはしることができない。つまり、人々を滅び、死から導き出し、生かしたことだろう。モーセと同じくエジプトの圧政からの脱出ではないか。

 しかも、それは軍事力ではなく苦しむ人々と共に歩く、なんとも非生産的、非効率的な弱い弱いあり方である。しかし、人を生かすとはその寄り添い歩くことではないか。

 私が愛したように互いに愛し合いなさい。イエスはまず、私たちを無条件に愛し抜かれた、だからこそ、私たちは他者への愛に向かわせられるのである。それは、立派な仕方ではなく、不格好な弱々しい歩みでしかないのである。   
今週の一句
なんじゃもんじゃ 大空に舞う 白き花

―もとゐ―


 2007年5月13日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書14章23節-29節

14,23 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14,24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14,25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14,26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14,27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14,28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14,29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

 私たちはイエスによって死から生命へと移った。

 私たちがこの新生に生きることのできるのは、イエスとの深い繋がりがあるからこそで、イエスから離れれば、旧生に戻るばかりだ。

 イエスとの深い繋がりは、イエスの言葉に従う限りにおいて生まれる。イエスは私たちを孤児にはしない。

 旧生は私たちを誘う、自分さへ良ければ、と。

 新生、つまり、イエスは言う、互いに愛し合えと。

 弱い私たちであるが、このイエスの言葉を絶えず聴いて行こう。   
今週の一句
交差点 名残の花に 蝶ひらひら

―もとゐ―


 2007年5月20日(日)
 主の昇天

 ルカによる福音書24章46節-53節

24,46 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた聖書には〕「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24,49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24,50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24,51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24,52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24,53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

生きたイエスとは私たちは身体的に会うことはできない。

しかし、私たちがイエスの言葉に応えるとき、生きた交わりを持つことが出来る。

イエスは私たちを招く、「行って、福音を伝えなさい」と。即ち、私たちが世にあって、この世の支配者に仕えるのではなく、人の生命を大切にする神に従い、人々に感謝して生きるようにとイエスは呼びかける。

そして、イエスは呼びかけるだけではなく、いつも、そばに付いていてくれるのである。

悲しい事件や事故が続いている今こそ、イエスの言葉に応えて行こう。    
今週の一句
水張れば 水鳥遊ぶ 蛙鳴く

―もとゐ―


 2007年5月27日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書14章15節-16節、23b-26節

14,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14,16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14,23b わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14,24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14,25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14,26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 弱小集団であった原始キリスト教団、特に、ヨハネ福音書を残したヨハネ共同体はユダヤ教からの激しい迫害にあって、自分たちが頼るものはイエスの他はなかった。だから、彼らはイエスは聖霊においていつも共にいてくださる、と信じていたのである。

 今や、キリスト教会は絶大な権力を持つになった。頼るものは、イエスではなく組織力、財力となったのではないか。イエスがいなくても存続できるようになった。そこにはイエスはいない。

 真理に生きようとする人々、2000年前と同じく、迫害される弱小集団である。頼れるものはイエスしかいない。聖霊の臨在をいのるしかない。そこにイエスはいるのである。

 弱さに神はおられるのである。    


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