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2007年3月4日(日) 四旬節第2主日 ルカによる福音書9章28b節-36節
イエスは舟。 どういう舟か、議論百出。これまで、イエスは貧しい人々に率先して関わってきた。当時、律法を守らない、守りたくても守れない貧しい人々を「汚れた者」と呼んでいたけれど、イエスは律法を無視して交わった。また、それ故に、病人たちを神の国から閉め出すユダヤ教支配者層をイエスは厳しく非難してきた。 それらのことから、イエスをユダヤ教の偉大な指導者モーセやエリヤを超える方ではないかと弟子たちは思うようになった。 しかし、イエスが何であるか、それは、歴史を詮索してもわからない。肝心なことは、イエスに聞き従って行くしかないのだ。イエスと同じく貧しい人々と関わって行くなかで、イエスがわかってくるのだ。 |
2007年3月11日(日) 四旬節第3主日 ルカによる福音書13章1節-9節
イエスは舟。生命へ導く舟。 人の幸、不幸は因果律では説明できない。寿命も同じ。 つまり、人の生はコントロール不可な領域なのだ。ただ、与えられた事柄に対応することが生となる。 イエスは回心して、実を結べと呼びかける。神の前で生きるのか、人の前で生きるのかと。神の前でとは、創造主なる神に信頼して、ありのままに生きること、つまり、人々と分かち合いに生きることだ。人の前とは、人の目を気にして偽善者となること、つまり、自己本位に生きることである。 イエスの舟は、ありのままに生きようとする者が乗っている。だから、いつも、混乱、わがままが、絶えない。けれど、それは実を結ぶ過程なのだ。 |
2007年3月18日(日) 四旬節第4主日 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
イエスは母船。 人は誰しも人生の荒海に向かって行かねばならない。錦を飾ろうと、故郷を出て行く。しかし、荒波に飲み込まれ海底の奥深く沈むこともある。そのとき、誰がその自分を探して、見つけ、腕に抱きかかえてくれるだろうか。 野宿生活に追いやられた人々、帰る所を持てなくなった人たちだ。自業自得と言って、無視し、排除するのがこの世界だ。 ところが、イエスはその排除された人々を探し、見つけ、喜びの祝宴を開いてくれる方がおられる。と私たちに告げるのだ。帰れるところがあると、呼びかけてくれるのだ。 その方がおられる、私たちは、安心して荒海へ飛び込んで行ける。その荒海に溺れている人にこの方を告げる小舟となって。 |
2007年3月25日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書8章1節-11節
イエスは舟。 航海の途上では多くの人々に出会う。犯罪者と呼ばれる人と出会うこともあるだろう。その時、私たちはどのように関われるだろうか。その方を皆と一緒に犯罪者と断罪するのだろうか。 イエスは言う、「罪を犯したことのない者が、まず、石をなげなさい」と。誰もがこの言葉にはっとし、吟味するだろう。私もこの犯罪者と同じなんだ、と。イエス自身、石を投げられる者ではなかったのだ。 イエスは私たちをその方と出会わさせる。裁く者ではなく、和解する者に作り替えられる。 |
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