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2007年1月1日(日) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
イエスは舟。 人が生きていくには土台が必要だ。野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたち、彼らは生きて行く上での困難さ、苦しさ、孤独をどのように受けとめ、乗り越えて行けたのだろうか。人間社会に頼る限り絶望的であった。ユダヤの宗教政治的体制は彼らを排除し続けたからだ。 他方、ヘロデをはじめとする権力者たち、地位を保つためには邪魔者を消すことも厭わない。彼らの生きる土台はこの世だけ、この世の論理、弱肉強食を土台としている。食うか食われるかの世界しかない。彼らは救いを見いだせない。 前者の羊飼いたち、彼らはこの世以外のもの、彼らに目を注ぎ、声をかける神を土台とするしかなかった。だから、彼らは容易にイエスを見出すことが出来た。そして、見たものは、自分らの苦しい生活に慰めと希望を与えることであった、何となれば、彼らの日常茶飯事である家畜小屋で生まれた子どもが救い主である と言うからだ。 神は自分たちの生き様のただ中におられる、苦楽を共にしてくださる方なのだ。彼らがこの神を土台にするとき、辛い困難な生活を乗り越え、幸いに至れるのだ。 私たちにも目を注いでくださる神と共にこの新しい一年を歩んで行こう。 |
2007年1月7日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
人が生きて行くには夢が必要だ。人々は夢を探している。 三人の博士たち、ユダヤ人の王に会う、という夢を追っている。その夢は立身出世だろう。できれば、その王の宮廷学者になることを。ヘロデ王、彼の夢は独裁政権の継続だろう。そのために、ユダヤ人の王の居所を突き止めようとしている。 ヘロデ王に仕えている祭司長や学者たち、夢は現状維持だろう。ユダヤ人の王を自らは捜さない。ヘロデ王の言うがままだ。 エルサレムの住民たち。祭司長たちと同じ。傍観者として、どっちつかずだ。エルサレム城外の人たち。不運な境遇からの脱出、人として認められることを切実に夢見ていることだろう。 それでは、私たちの夢は?、この五者たちのどれに当たるだろうか。 「ユダヤ人の王」に私たちが出会ったとき、その夢は打砕かれる。十字架刑のイエスの頭上には「ユダヤ人の王」と罪状書きがあった。私たちの夢は十字架のイエスが開いてくれた。 |
2007年1月14日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書2章1節-11節
新年早々、暗い事件が続き暗澹としている。 しかし、イエスの登場はその思いを変えてくれる。 今日のヨハネ福音書では、イエスが生命を豊かにする者として自己を顕わしたことが書かれている。 毎年、1月6日、ナイル河が氾濫するにあたってお祭りがあった。その水が生命の源であることを祝ったという。また、同時にディオニュソス神がをぶどう酒に変えたことを祝う祭りでもあったという。 ヨハネはこれらの祝いをイエスに置き換えたのだ。即ち、イエスは生命の神であると。 ともかく、イエスはめでたい人だ。イエスのいる場は婚礼の場、うまい酒をどんどん出して祝っているところにイエスはいる。暗い世相を吹き飛ばしてくれるのだ。 私たちの暗澹はイエスにおいて希望となる。イエスと共に世界を明るくして行こう。 |
2007年1月21日(日) 年間第3主日 ルカによる福音書1章1節-4節、4章14節-21節
今日の箇所はいわゆる序曲で、ルカはこれから始まるイエス・キリストの宣教が何であるかを端的に示している。 即ち、聖霊に遣わされて、貧しい人々に救いの福音を告げること、と言う。イザヤ書61章から引用されているが、指摘されているように「神の報復の日」は削除されている。その理由は、イエスがユダヤの人々の期待した政治的メシアではなく、愛とゆるしの、十字架刑死まで徹底的に非暴力を貫いたメシアであると、ルカは証ししている、と言う。 これは、今日的にものすごく大事なメッセージだ。イラク戦争などに見られる武力では決して平和は訪れない状況を変えうるものではないか。現日本政府の戦争の出来る憲法に改憲しようとする動きへのブレーキになるメッセージだ。愛とゆるしに生きたイエスを救い主と信じる私たちも、この福音を今こそ生きて行こう。 |
2007年1月28日(日) 年間第4主日 ルカによる福音書4章21節-30節
イエスの舟は幸いを満載して私たちのところへ来た。 人々は期待した。他所で多くの幸いを与えてきたから、故郷の俺たちにはもっと幸いをもたらすはずと、イエスに望んだ。 ところが、イエスは彼らの待望したメシアでもなく、その幸いも期待とは違っていた。それ故、故郷の人々の憎悪は一層激しいものとなった。 私たちは神々に多く期待する。そのため、信心業に励む。いわゆる、御利益宗教だ。しかしながら、イエスはそれに与しない。むしろ、十字架の刑死を私たちに残した。そして、その死に神の愛を、即ち、幸いを弟子たちは見出した。 私たちは御利益に幸いを求めるのではなく、神の愛に喜ぶ者となりたい。 |
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