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2006年12月3日(日) 待降節第1主日 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節
イエスは舟。 航海には終わりがある。永遠に走る続けるわけではない。イエスの舟の航海も終わりに近づいている。しかし、順調には終わらない。どんでん返しのような苦難が襲いかかってくる。戦争、飢餓、病気、大災害から個人的な苦しみ等々。 その苦難にあっても、私たちは応えを求められている。 日本の指導者たちの選択、自分さえよければ、とは違う応えを。けれど、孤独ではない、イエスの舟があるから。その上で、他者と共に苦難に立ち向かって行くことができるのだ。 そして、航海の終わりに、みんなが人生は良かった、と言いたい。 |
2006年12月10日(日) 待降節第2主日 ルカによる福音書3章1節-6節
教会の暦では先週から新しい年になった。イエスの舟の航海はまた始発に戻る。新しい航海は如何なるや。 混迷する現代にあって、新しい希望を人々は待ち望んでいる。不平等が憎悪を生み、妬みやひがみがそれを増幅して行く、人々の怒りはより弱い者に向かっていく。人生は不安と焦燥になっている。そのようななか、人々は人生が喜びと感謝になることを望む。 希望はどこから来るのだろうか。 聖書は語る、荒野からと。華やいだ都会からではない、それは人々を避けさせ、忌み嫌われるところ、野獣や悪霊の跋扈するところ。即ち、人が人として扱われず、無視されるところ。そこから叫ぶ声に耳を傾けるとき希望が生まれる。被害者と出会い交流から希望は生まれる。 イエスの舟はまずそこに錨をおろす。 |
2006年12月17日(日) 待降節第3主日 ルカによる福音書3章10節-18節
イエスの舟は荒野に錨を降ろした。 神の言葉が降りる荒れ野、叫ぶ者の声がする荒れ野。 生きるに呻吟する人々、重荷に喘ぐ人々の声がする現代。立ち止まり、耳を傾けると聞こえてくる。あなたの人生は幸せですか、生きていて良かったと思えますか。 苦難にある人を覚えると心中穏やかでなくなる。クリスマスの喜びも半減する。 幸せだと言えるには、苦難の叫び声を喜びに変えなくてはならない。 「わたしたちはどうすればよいですか」苦しむ人々と出会い学ぼう。 |
2006年12月24日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章39節-45節
イエスの舟は荒野に停泊中。 荒れ野が神の国となる。荒れ野からの叫び声に耳を傾け、応えるとき、一人じゃないことに気付く。 エリサベトとマリア、理不尽の人生に疲労困憊していただろう。相談することもできず、ひきこもっていただろう。マリアは立ち上がって出掛けて行った。 エリサベトの喜びは如何ばかりであっただろう。マリアも安堵したことだろう。つきない話しを幾晩にも語り合ったことだろう。そして、イエスの舟に乗って共に歩むことを誓ったことだろう。 叫び声を聴こう、私たちも叫ぼう。きっと、誰かとの出会いが始まる。 |
2006年12月24日(日) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
イエスの舟はマリアを乗せて出航。 マリアたちにはまた難題が吹きかけられた。古来から庶民たちは権力により人生を狂わせられる。我が国でも貧窮問答歌の時代から現在の安部政権まで変らず、搾取され続けている。マリアたちは身重でありながら難儀な旅を、旅先では子を産む場所さえない苦痛を与えられた。現代でのさながら難民キャンプでの出産ということだろう。 しかし、ヨゼフ、マリアたちはこの苦難を耐える勇気を与えられていた。エリサベトとの交わりによって、神が共にいられることを信じ得たからだ。旅の途中でも、出産にあっても、彼らは一人ではなかった。 羊飼いらも同じであった。夜の暗闇のなか野宿していても、彼らは恐れも寂しくもなかった。神がいてくれるからだ。 権力には恐れがある。自分にしか頼るものがないからだ。 マリアとヨゼフ、羊飼いたちは出会い、自分ら弱い立場の者立ちに注がれる神を讃える。 クリスマス、それは神が私たちと共にいられることへの賛歌だ。 イエスの舟に乗らせてもらえる喜びの歌だ。 |
2006年12月31日(日) 聖家族 ルカによる福音書2章41節-52節
マリアらはイエスの舟で出航。 天使たちは、羊飼いらにまぶねの中の幼子が救い主イエスだと告げられた。そうでなければ、羊飼いたちは救い主イエスには出会えなかった。大王ヘロデにもその居場所は分からなかった。 私たちにとっても、十字架上で刑死したイエスが救い主であると告げられるまで、救い主イエスには出会えない。母マリアと同じように探し回るしかないのだ。 今、救い主イエスはどこにいるのか。飼い葉桶、十字架刑のシンボルするところを見つけに行こう。 |
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