ももちゃんの一分間説教




今週の一句
老女ひとり 住まう屋敷の 南天かな

―もとゐ―


 2006年12月3日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 イエスは舟。

 航海には終わりがある。永遠に走る続けるわけではない。イエスの舟の航海も終わりに近づいている。しかし、順調には終わらない。どんでん返しのような苦難が襲いかかってくる。戦争、飢餓、病気、大災害から個人的な苦しみ等々。

 その苦難にあっても、私たちは応えを求められている。 日本の指導者たちの選択、自分さえよければ、とは違う応えを。けれど、孤独ではない、イエスの舟があるから。その上で、他者と共に苦難に立ち向かって行くことができるのだ。

 そして、航海の終わりに、みんなが人生は良かった、と言いたい。  
今週の一句
裸木を 照らして飾る 冬の月

―もとゐ―


 2006年12月10日(日)
 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1節-6節

3,1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3,2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3,3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3,4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3,5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3,6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 教会の暦では先週から新しい年になった。イエスの舟の航海はまた始発に戻る。新しい航海は如何なるや。

 混迷する現代にあって、新しい希望を人々は待ち望んでいる。不平等が憎悪を生み、妬みやひがみがそれを増幅して行く、人々の怒りはより弱い者に向かっていく。人生は不安と焦燥になっている。そのようななか、人々は人生が喜びと感謝になることを望む。

 希望はどこから来るのだろうか。

 聖書は語る、荒野からと。華やいだ都会からではない、それは人々を避けさせ、忌み嫌われるところ、野獣や悪霊の跋扈するところ。即ち、人が人として扱われず、無視されるところ。そこから叫ぶ声に耳を傾けるとき希望が生まれる。被害者と出会い交流から希望は生まれる。

 イエスの舟はまずそこに錨をおろす。   
今週の一句
どんぐりの 後の落ち葉を 踏み鳴らし

―もとゐ―


 2006年12月17日(日)
 待降節第3主日

 ルカによる福音書3章10節-18節

3,10 〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3,11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3,12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3,13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3,14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3,18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 イエスの舟は荒野に錨を降ろした。

 神の言葉が降りる荒れ野、叫ぶ者の声がする荒れ野。

 生きるに呻吟する人々、重荷に喘ぐ人々の声がする現代。立ち止まり、耳を傾けると聞こえてくる。あなたの人生は幸せですか、生きていて良かったと思えますか。

 苦難にある人を覚えると心中穏やかでなくなる。クリスマスの喜びも半減する。

 幸せだと言えるには、苦難の叫び声を喜びに変えなくてはならない。

 「わたしたちはどうすればよいですか」苦しむ人々と出会い学ぼう。   
今週の一句
街路樹が ツリーに変る 赤椿

―もとゐ―


 2006年12月24日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39節-45節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 イエスの舟は荒野に停泊中。

 荒れ野が神の国となる。荒れ野からの叫び声に耳を傾け、応えるとき、一人じゃないことに気付く。

 エリサベトとマリア、理不尽の人生に疲労困憊していただろう。相談することもできず、ひきこもっていただろう。マリアは立ち上がって出掛けて行った。

 エリサベトの喜びは如何ばかりであっただろう。マリアも安堵したことだろう。つきない話しを幾晩にも語り合ったことだろう。そして、イエスの舟に乗って共に歩むことを誓ったことだろう。

 叫び声を聴こう、私たちも叫ぼう。きっと、誰かとの出会いが始まる。    
今週の一句
キャンドルを  並べて灯す 冬至かな

―もとゐ―


 2006年12月24日(日)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 イエスの舟はマリアを乗せて出航。

 マリアたちにはまた難題が吹きかけられた。古来から庶民たちは権力により人生を狂わせられる。我が国でも貧窮問答歌の時代から現在の安部政権まで変らず、搾取され続けている。マリアたちは身重でありながら難儀な旅を、旅先では子を産む場所さえない苦痛を与えられた。現代でのさながら難民キャンプでの出産ということだろう。

 しかし、ヨゼフ、マリアたちはこの苦難を耐える勇気を与えられていた。エリサベトとの交わりによって、神が共にいられることを信じ得たからだ。旅の途中でも、出産にあっても、彼らは一人ではなかった。

 羊飼いらも同じであった。夜の暗闇のなか野宿していても、彼らは恐れも寂しくもなかった。神がいてくれるからだ。

 権力には恐れがある。自分にしか頼るものがないからだ。

 マリアとヨゼフ、羊飼いたちは出会い、自分ら弱い立場の者立ちに注がれる神を讃える。

 クリスマス、それは神が私たちと共にいられることへの賛歌だ。

 イエスの舟に乗らせてもらえる喜びの歌だ。
今週の一句
御用納め 明くる朝の 通勤人

―もとゐ―


 2006年12月31日(日)
 聖家族

 ルカによる福音書2章41節-52節

2,41 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2,42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2,43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2,44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが
2,45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2,46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2,47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2,48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2,49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2,50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2,51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2,52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 マリアらはイエスの舟で出航。

 天使たちは、羊飼いらにまぶねの中の幼子が救い主イエスだと告げられた。そうでなければ、羊飼いたちは救い主イエスには出会えなかった。大王ヘロデにもその居場所は分からなかった。

 私たちにとっても、十字架上で刑死したイエスが救い主であると告げられるまで、救い主イエスには出会えない。母マリアと同じように探し回るしかないのだ。

 今、救い主イエスはどこにいるのか。飼い葉桶、十字架刑のシンボルするところを見つけに行こう。 


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